HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<本の棚> 田中創 著 『ローマ史再考 なぜ「首都」 コンスタンティノープルが 生まれたのか』

高橋英海

 覚えておられる方はそう多くはないかもしれない。二〇一三年に、今年もしかすると開催されるかもしれないオリンピックの候補地が決まったとき、東京のもっとも有力なライバルだったのはイスタンブールである。私としてはぜひイスタンブールが選ばれてほしいと願っていた。世界的に見てもっとも魅力的な主要都市の一つだからである。かつてコンスタンティノープルと呼ばれたこの都市の魅力は、ボスポラス海峡を隔ててアジア大陸を望むその立地が生み出す美しい景観とともに、東ローマ・ビザンツ帝国、オスマン帝国という、アジアとヨーロッパの二大陸にまたがる二つの帝国の都として君臨した一六〇〇年の年月の間に蓄積した膨大な歴史的、文化的遺産にある。
 田中氏の『ローマ史再考』はそのコンスタンティノープルの都としての「幼年期」、より具体的には都となる前段階としての三世紀からユスティニアヌス帝(五二七~五六七年)の時代までを扱う。ここで、副題にある「なぜ『首都』コンスタンティノープルが生まれたのか」という問いについて、三三〇年にコンスタンティヌス大帝が「遷都」したからという教科書的な答えが不十分なものであることは言うまでもない。本書はローマ帝国の歴史のなかでコンスタンティノープルが二世紀あまりの時をかけてローマに代わる新たな首都としての地位を確立していった経緯を詳細に解き明かしてくれる。
 三世紀の「軍人皇帝」の時代以降、歴代のローマ皇帝は帝国の広大な領土を維持するためにローマを離れて移動することを余儀なくされ、さらにディオクレティアヌス帝(二八四~三〇五年)の治世以降には複数の皇帝が並立したことにより、帝国の政治的中心地は各地に分散した。本書前半の三章(「コンスタンティノープル建都」、「元老院の拡大」、「移動する軍人皇帝の終焉」)では、そのような状況のなかで、コンスタンティヌス大帝とその一族の支配下において、大帝が築いた都市が帝国東部のエリート層が集まる場となり、帝国の新たなに中心となっていった経緯が語られる。後半の三章では、このようにして帝国の政治の中心地となったコンスタンティノープルがその地位をさらに確固たるものとしていった過程が記される。なかでも、第四章「儀礼の舞台」に見られる、コンスタンティノープルが皇帝による政治の演出をするための舞台装置として発展したという指摘には特に肯かされた。五世紀はローマ帝国内でキリスト教がその勢力を急速に拡大させていった時代でもある。五世紀後半を扱う第五章「合意形成の場としての都」では、コンスタンティノープルが政治的、宗教的な合意形成の場として機能したことが示され、このことが「西ローマ」が滅びたのちも「東ローマ」が長く存続した理由として指摘される。最終章の「都の歴史を奪って」では、ユスティニアヌス帝によるローマ法の再編や帝国西部の再征服などをとおしてコンスタンティノープルが旧都ローマに代わる首都としての地位を最終的に不動のものとしたことが示される。
 本書は首都コンスタンティノープルをめぐる出来事を中心的に扱いながらも、四世紀以降のローマ帝国全体の歴史についても多くの重要な示唆を含む。古代ギリシア・ローマの歴史や文学・文化の研究のなかでかつてはややもすると継子扱いされていた「古代末期」と称される時代の研究が世界的に盛んになったのはもう数十年前のことだが、国内のローマ史研究ではこの時代を扱う書物はいまだにそう多くはない。そのようななかで、世界的に見ても重要な新たな分析を含む田中氏の研究書は画期的であり、今後、田中氏が国内でのこの分野の研究を牽引していくことが期待される。本書の「あとがき」では七世紀のローマ帝国とササン朝ペルシアの弱体化がイスラーム勢力の急速な拡大を許したことが指摘されているが、さらに欲を言うならば、田中氏のユスティニアヌス帝期以降の研究にも期待したい。

(地域文化研究/英語)



第625号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報