HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

現場・出来事・比較 ─駒場と『草の根の中国』の20年

田原史起

 駒場で奉職してはや二〇年が過ぎた―。
 一昨年、東京大学出版会から刊行された小著『草の根の中国―村落ガバナンスと資源循環』(以下『草の根』と略記)は、駒場の教員である筆者が、長期休暇のたびに行ってきた中国の村々での調査記録を基にまとめたものだ。駒場と農村の現場を往復し続けた二〇年間の一つの成果物であり、良くも悪くも等身大の自分に大きく重なる作品である。「二〇年もかかってしまった」ともいえるが、授業担当や大学の業務もある中で、「二〇年でよくできたものだ、幸運だった」という思いもなくはない。自身の駒場奉職二〇周年を記念して、勝手ながらこの機会をお借りし、「現場」、「出来事」、「比較」の三つのキー・ワードから個人的な思いを述べてみたい。
 まずは「現場」。フィールド・ワークを続けながら、常に筆者の頭の片隅にあったのは、「読万巻書、行万里路」(一万冊の書を読み、一万里の道を行け)という中国語の名句である。読書量もフィールド・ワークも超人的な、マッチョで精力的な研究者を目指せ、という格言にも思える。しかし、筆者の随意な解釈では、この句の要はむしろエネルギーの節約にある。農村研究に引き付けて言えば、まず先に「現場」での実践=フィールド・ワークを始めてしまい、現場感覚を身体化したうえで理論=文献研究に進むということである。筆者は二〇年の間に、事例となった中国の村々を「定点観測」の手法で繰り返し訪れ、農家に住み込んでは、人々と食事を共にし、あぜ道を歩き回り、オンドルの上でお喋りをしながら、中国農村に住む人々の行動ぶりを自分の身体で感じ、その生活の内在的ロジックに迫ろうとしてきた。文献による裏付けはフィールドから駒場の研究室に戻ってから、いつも「後付け」だった。いい加減なようだが、このやり方には良い面もある。一つは、「万里の道」を文献調査に先駆けて歩き始めることで、読むべき書物はおのずと絞られてくる。さらには、現場の経験によって文献資料の情報が文脈化・血肉化され、立体的に立ち上がってくることである。つまり、現場を知らないまま盲滅法に万巻の書に立ち向かう際の無駄を省くことができるのである。
 日本の民俗学の始祖で農政官僚でもあった柳田国男が内閣記録課長を務めていたころ、膨大な本で埋まる書庫を整理していて思ったという。「書物で学ぼうとしたら一生あっても足りない。実地に即して調べていく方が効果がありはしないか...」。こうして「実地に即して調べる」「歩くことが学問だ」ということが柳田の確信になっていった。「現場」のもつ不思議な調律作用は、筆者も常々感じていたところである。
 次に「出来事」。中国の行政村数は現在でも五〇万を超える。仮にその一万分の一の村を訪れるとしても、調査どころか、訪問するだけで一生かかってしまう。そこで『草の根』では、全国に散らばるたった四つの村に的を絞り、それらの村の特徴を描き出すのにも、「出来事中心のアプローチ」と呼ぶ接近法をとっている。すなわち、村落生活の何から何まで調べ尽くすというのは到底、無理だと、腹をくくってしまうのである。現地でも無理はせず、自分の知りたいことを根掘り葉掘り尋ねたりはしない。基本的には現地の人が見せてくれるもの、連れて行ってくれる場所、好んで語ってくれる思い出など、偶然かも知れないが現地で知りうる「小さな出来事」を大事にする。その結果、過去から現在の村落生活に深くかかわる農地や山林の造営、灌漑・飲水施設の整備、村営企業の設立、道路づくり、学校や教育環境の整備、定期市や宗教施設の設置、ひいては死者の埋葬に至るまで、住民が関心を持つ諸問題の解決、多種多様の小さな共同活動=ガバナンスが見えてきた。
 一つ一つの物語には、それぞれに異なる農村リーダーや住民たちが登場する。きっちりと定常的に役割を果たす組織や、固定的な財源があるわけではない。人々がその時々で利用可能な「資源」を探し出し、臨機応変に組み合わせ、循環させている様子を描けば、当該村落の特徴が何よりもビビッドに読者に伝わる。このように、「出来事」に着眼することは、実はフィールド・ワークに投入可能な限られた時間と労力を節約しつつ、地域の特徴を描く方法でもある。絵画に喩えていえば、細かいパーツを一つ一つ根気強く組み上げるモザイクではなく、できるだけ無駄な線を省きながら、短時間で対象地域をスケッチする手法に近い。
 最後に「比較」。限られた個別具体的な対象をうまくスケッチするだけでは、まだ読者諸賢を納得させることは難しい。あるとき筆者の駒場の授業で『草の根』の村々の事例について語っていたところ、受講学生から「こんな細々とした村の研究に将来性はあるのか?」という趣旨のコメントをもらった。『草の根』第三章から第六章の四事例だけを読めばそのような感想は免れ得ないかもしれない。そこで、村々の小さな物語を、ただそれだけものに終わらせず、中国社会論としての理論的な含意を引き出すために不可欠だったのが、「比較」を通じた概念化であった。
 『草の根』の研究対象地域は大きく見れば「中国」であるが、より細かく見れば山東省、江西省、貴州省、甘粛省というそれぞれに個性的なサブ地域に位置する村々である。それぞれの地域事情に詳しい「現地通」は多いが、複数の地域を正面から比較するような試みは中国内外を含め、存外に少ない。本書では、第二章で提示しておいたフレーム・ワークに基づき、国内の四地域の村落間の比較(第七章)を行うことによりそれぞれの個性を浮き彫りにするとともに、中国の村落ガバナンスの一般的特徴を「資源循環モデル」として提出した。さらに中国農村の全体的特徴を、ロシア農村やインド農村との潜在的比較(終章)を通じて再提示した。大雑把な話となるのは承知の上だが、職人気質の地域研究者であるほど避けて通りがちな、恥知らずな(?)「比較」を通じて、一国主義的な中国研究ではなかなか意識されることのない中国社会の特徴の一端を示せたのではないかと思う。
 以上のごとく駒場と現場を二〇年にわたり循環しつつ育まれた『草の根の中国』に、昨秋、第三二回アジア太平洋賞(大賞)と第一〇回地域研究コンソーシアム賞(研究作品賞)という二つの賞が授与された。本書の執筆動機の一つには、これまで継続的に科研費の申請が採択され、中国・ロシア・インドでの農村調査を続けられたことに対する日本社会への「恩返し」の意味もあった。受賞により光が当たることで、本書が我が国の知的共有財産の一部として認知され、将来にわたりより多くの読者に出会っていくことを期待している。

(地域文化研究/中国語)

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