HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<送る言葉> 微笑の印象 ─高橋先生を送る

森元庸介

 近しく謦咳に接したのでもない身がこのような一文を...といった口実をかまえるのを、高橋哲哉先生は諒とされまい。
 この春、新しい大学院生を迎える場で、先生はおもむろにこう切り出された。授業や研究会での質疑にあたって、最近、若い方々の前置きが丁寧にすぎて少々もどかしい、「充実したご発表で」云々、「勉強になりました」等々...、いや、すみやかに本筋に入ってよい、最後の機会となるので、今年の授業に出席するみなさんにはとりわけ単刀直入を望みたい、と。歓迎の場に水を差すのではむろんなく、絶妙に辛みの効いたスパイスを投じるかのようで、居合わせた者のあいだでいまもふと話題になる。
 誰もが知るとおり学内外でご多忙をきわめる先生だったから、ご一緒できた時間を思い起こそうとして浮かぶのは、やはり各種の論文審査の場面である。冒頭で論文の意義と射程、限界が簡潔にまとめられ、間を置くことなく、核心を衝くコメント、質問が、沈着そのものの語り口とともに、いっさいの弛みを排して連ねられる。そのあちこちでまた、圧縮された哲学史の知見が矢継ぎ早に閃いて、内心で冷や汗をかいたのは学生ばかりでなかった。
 ただ、先生がまずもって自身に課されたはずの厳しさをばかり強調すれば、それは端的に誤りとなるだろう。実際、審査の場にあって先生は、微笑を絶やされることがなかった。鋭鋒をわずかでも和らげるためだったか。いや、必ずしもそうであるまい。憚らずいえば、その微笑はむしろ悪戯めいて仄かに意地悪くさえ見え、さらに、優れた成果に対してこそ、なおのことそうであったように思われる。分野や主題を問わず、精確な推論と引証、少なくともそれに向けられた努力と試行に触れると、口角は二ミリか、あるいは三ミリか、しかし瞭然と上向き、さりながら問いはいっそう鋭さを増してゆく。ためにする挑発でなく、ふりをした親密さのサインでもなく、「師」としての端然たる姿勢を保ちながら、打ち込みに確かな手応えの戻ってくることを曇りなく楽しまれるかのようだった。そのうえで、ときに「これぞ哲学の論文と堪能しました」と留保なしに破顔されることもたしかにあったのだと、ささやかな証言を書き留めておこう。
 省みて、そうした往き方は、ご自身が斯界の第一人者として研究を続けられてきたフランスの哲学者ジャック・デリダのそれに通じていなかったか。「どのような点で、そう思われますか」─「『遅延』を恐れぬ綿密さとともに、時の『切迫』に弛まず応答をつづけ、しかしまた、そのすべての根底に『喜び』のありうることを斥けぬ点において」。挙げるべき無数の論拠を欠いたままの、こんな拙速で陳腐な仮説を、もちろん高橋先生は諒とされまい。だが、ここが審査を離れた場であることを口実に、不出来を承知で提出する送辞として受け取ってくださればと、ただ願う。先生にもっと多くを学ぶことができていたなら─立場と主張を越え、近しく、あるいはまた遠くから、謦咳に接することのできたすべてのひとがいま分かち持ってくれるだろう、その思いとともに。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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