HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

日本進化学会学会賞・木村資生記念学術賞の受賞*に際して

金子邦彦

 進化は学生の時からずっと興味を持っていた。ダーウィン進化論は、フィッシャー、ライト、木村資生らにより、集団遺伝学として理論的定式化が夙に完成している。とはいえ、なにか釈然としないものが残る。それはおそらく、それが「遺伝子の進化」の理論だからかもしれない。生物にとって生存し子孫を残せるかを決めるのは外に現れる性質、細胞で言えばいろいろなタンパク質の濃度や細胞の成長速度などであり、これらは表現型と呼ばれる。といっても、遺伝子によって表現型が一意的に決まるのであれば、「適した」表現型の選択は対応する遺伝子の選択に置き換えられる。それゆえ集団遺伝学の有効性は高い。しかし、表現型が遺伝子という規則からつくられるには複雑な動的過程(発生過程)を経なければならない。結果、同じ遺伝子を持っている個体(クローン)でも表現型はばらつく。ではこの表現型の分散と進化は関係しないのだろうか。
 バクテリアなどでは同一遺伝子を持った個体間で各タンパク質の濃度や成長速度がどれだけ異なっているかは計測でき、その分布も得られる。一方、バクテリア程度なら実験室内で進化を十分に追える。二十年近く前、共同研究者の実験データを見ていて、表現型(この実験では蛍光度合い)の(クローン間での)分散とその進化速度との間の相関に気づいた。ここで、こうした相関をみようと思った背景には、アインシュタインのブラウン運動に始まる、統計物理の理論がある。それは、例えば、ブラウン運動での粒子の位置の揺らぎと、外力による移動度合いとの関係であり、一般的には力を入れていない時の揺らぎ(分散)と外力による応答との比例関係である。さて、先の実験では変異体の中から蛍光の高いものを淘汰していた。それを、表現型をある方向に引っ張ろうとした時の応答とみなせれば、蛍光という表現型の進化速度は、進化させる以前のそれの揺らぎと比例するのでは、という発想が出てくる。
 もちろん統計力学の理論は平衡状態でなりたつものであり、生物はそれとは程遠い。また、淘汰過程も外力への応答と言ってよいかわからない。とはいえ異なるレベルの現象を結びつけるのは理論物理の醍醐味でもある。そこで表現型分布に対する定式化を行い、また細胞モデルのシミュレーションでもこの関係を確認した。
 それで喜んだのもつかの間、新たな疑問が生じた。集団遺伝学側では、遺伝子が分布していることで生じる表現型の分散と進化速度が比例しているという定理が確立している。一方で我々が見出したのは同一遺伝子個体に対する、(非遺伝的)ノイズによる表現型揺らぎと進化速度との比例関係である。両者がともに成り立つにはノイズによる表現型揺らぎと遺伝子変異による揺らぎが比例しなければならない。しかし揺らぎの原因が異なるのでこれは自明ではない。遺伝子と表現型の分布が進化を通して安定しているという仮説のもと、なんとかこの関係をひきだし、また細胞を進化させる理論シミュレーションで、これを確認した。そして、この背後には、表現型がノイズに対して安定になっていくと遺伝的変異に対しても安定化するという、安定性進化があることを明らかにした。
 ここでひと段落と思ったのであるが、よく考えると、表現型は元来極めて多次元である。例えば細胞内には数千種類のタンパク質が存在し、それぞれの濃度の変化は数学的に言えば数千次元の状態空間で起こる。一方で先の理論は1つないし数個の変数に対する分布理論である。なぜうまくいくのだろうか。
 その疑問を解くきっかけは数年前、細胞内の数千種類のmRNAやタンパク質の各濃度が環境条件とともにどう変わるかの実験結果を眺めているときに掴めた。数千成分の変わり方がおよそ、あるライン上に制限されていたのである。これはなぜだろうか。ここで、先述の安定性に着目する。細胞が成長して分裂後も各成分の濃度が維持されているなら数千もの成分が皆、同じ割合で増えていくはずである。さらに、この定常的成長状態は、ノイズに対して安定でなければならない。説明する紙数は尽きてしまったけれども、この要請から、表現型の変化に数千次元の方向があっても、主に変われる方向は1ないし少数に制限されることが導かれる。
 熱統計力学では粒子の数が膨大でも安定した平衡状態は少数で記述できる。それと類似した理論が生物の適応、進化に対しても垣間見えてきたのである。そして、このような変わりやすい方向の制限の結果、(遺伝子の変化がでたらめに生じても)表現型の進化しやすい方向には強い拘束が現れる。こうした進化の方向性と拘束はバクテリアの実験でも確認され、さらには生物一般にどこまで成り立つかを探るプロジェクト(新学術領域研究、倉谷滋代表)も始まっている。また、生物に共有される普遍的性質を探る研究は共鳴者も増え、駒場と本郷との連携で生物普遍性研究機構が四年前に発足している。
 今回の受賞は三つの点で特別な感慨がある。一つは以前いただいた数理や物理での賞が主に若いときに一人で進めた研究への評価であったのに対して、今回は研究室のメンバーや仲間たちとの共同研究の賜物であること。実際、上で述べた一連の進化研究の多くはうちの研究室出身で実験と理論の二刀流を見事に遂行している古澤力さん(現理学系研究科)との共同研究である。また受賞理由には分子生物学のセントラルドグマを、物理でいう対称性の自発的破れで説明した竹内信人さん(現オークランド大)との研究、階層進化理論でレヴィストロースの親族の構造を説明した修士2年の板尾健司さんの研究も挙げられている。
 第二には、受賞理由に、『生命とは何か』『普遍生物学』の上梓(ともに東京大学出版会)による若い世代への刺激を挙げていただいたこと。これらの書が次世代の潮流への一助となっていれば喜びこの上ない。
 そして第三は、物理出身の、生物学「無免許」研究者に、生物の賞を授けていただいたことへの感激。普段、統合自然科学科の学生に、分野を越えて深く広く学ぶことの意義を語っている身としては、これで数理、物理、進化生物で多少なりとも認知され、やっと統合自然科学科の教員のスタートラインに立てたかなという思いもある。これを機にますます、分野の垣根のない、駒場の利点をいかした研究、教育に精進したい、と結びたいところなのであるが、定年まであと一年余となってしまった。ここまで、自由な研究の場を与えてくださった駒場の雰囲気、母体となった複雑系生命システム研究センターにあらためて感謝したい。
* http://sesj.kenkyuukai.jp/special/index.asp?id=33354

(相関基礎科学/物理)

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