HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<送る言葉> 驚異の歴史家

田中 創

 池上俊一先生とは同じ西洋の古い時代を専攻しているというご縁もあり、色々なところで仕事をご一緒させていただく機会に恵まれた。常に冷静沈着で、朴訥とした語り口ながらも、本質を抉り出す鋭い発言をされる姿を横目にしてきて、大学教員はこうあるべきだなぁと、身の動きも心も落ち着きのない、私は感じていた。(実際、私はいい加減なので、後期課程HPの作成時に手元によい写真がなくて、ゴシック建築の写真を『ロマネスク世界論』の著者に添えてしまいました。この場を借りてお詫びします。)
 今でも印象に残っているのは、先生の研究室で一度お会いした際に、びっしりと予定で埋まった手帳を拝見した時である。駒場の教員の忙しさを目の当たりにしたという悲劇的な瞬間でもあったが、それ以上に、このようなスケジュールをこなしながら、数々の著作を陸続と発刊なさっている先生の活動力に驚かされた。実際、先生の著作は単にその量のみならず、内容の多彩さにも圧倒させられる。十字軍や王、都市といった中世史の王道のテーマに始まり、狼男などの驚異譚、パスタ、音楽、遊び、お菓子などスコラ学的多様さを誇る。もちろん、アナール派の大家ジャック・ル・ゴフの門を叩いたことにも表れているように、後者のような社会史的なアプローチこそが先生の本領である。そうは言っても、生活・心性・伝説といった掴みどころの見出しにくいテーマを扱いながら、王権や国家といった固い論題を見据えて、一貫した論理性を持った中世世界を描き出す手腕は驚異そのもの。さらには、古代ローマの独裁官ユリウス・カエサル(私にかかると名前の響きからして単なる強面)を、カエルくんならぬ柔和な「カエサルくん」として登場させる子供向け絵本まで手掛けるのだから、如才ない。
 そんな先生の意外な一面は、スイーツ・パトロールという名の、甘味探しを趣味とされていることであった。しばしばご著書の中でも五感にまつわる分析をされる先生だが、実生活でも五感(特に味覚?)を厳しく鍛錬していたのだ。ある料理店に、林檎の収穫期が来たので、タルト・タタンを作り出しているかどうかを毎年のように電話で確認しているというお話をうかがったときには、歴史家のまめまめしさはこういう風に発揮するのかと、舌を巻いたものである。また、教育面でのフットワークも軽く、長らく一・二年生向けにはフランス語を教えられていたが、近年やにわにイタリア語教育に転身された。いずれの言語もラテン語の一変化形として見てしまえばそれまでだが、その若々しさはそうそう真似できるものではない。そんな先生が定年退職を一年前にして、駒場を去られると聞いたときも寝耳に水であったが、行動的な先生であればむべなるかなと妙に納得したものである。駒場の森の呪縛(?)から放たれた先生がこれからどのような仕事を発表されるのか。さらなる驚きを期待してやまない。

(地域文化研究/歴史学)

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