HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報626号(2021年4月 1日)

教養学部報

第626号 外部公開

福島第一原発事故から10年、現場からの報告

小豆川勝見

 二〇二一年三月で福島第一原発事故の発生から十年が経つ。新入生の皆さんの多くが小学校低学年の頃から続く災害である。事故直後から原発周辺で調査を続けている私だが、十年の節目に最近の様子と今後について放射線測定の立場からお伝えしたい。
 この原発の廃炉の行程には、想像をはるかに超える多くの困難がある。そのひとつにトリチウムを含んだ水を環境中に放出することへの是非がある。具体的には太平洋への放出を念頭に議論が進められているようだ。
 原発内に存在するトリチウムはタンクと炉内の合計で数千兆ベクレルと目されている。このトリチウム、現行の各規制に則って放出したとしても十年単位の時間を必要とする。一度海洋放出を決めた場合、タンク内に溜められているトリチウムに限らず、廃炉措置が完了するまで継続して放出することが想定される。
 放射性物質は基本的に原子一粒単位で起きる事象をカウントして量を測るので、これを目に見える量、すなわちモル単位に焼き直すとアボガドロ定数が必要になる。そのため、両者の換算には10の23乗がいったりきたりする。数千兆ベクレルのトリチウム、大きな数字なので直感では理解しにくいが、重さに換算すれば10グラム程度である。トリチウム原子を一つ含んだ水分子しかない水をトリチウム水と仮に定義するなら、数千兆ベクレルのトリチウム水はペットボトル一本に収まってしまう。
 このことは、原発から放出された放射性物質のひとつ、放射性セシウムについても同様だ。原子炉から飛散したすべての放射性セシウムを回収、濃縮できるのならば、その重さは数キログラムにしかならない。除染によって取り除かれ、黒い袋に入れられた汚染土壌は福島県内だけで二二〇〇万袋発生しているが、一袋当たりの放射性セシウムは到底秤で測れる重さではない。
 むろん、いや残念ながらというべきか、一度環境中に放出された放射性物質をコンパクトなサイズまでに濃縮することは現在の科学力では不可能である。だからといって環境中に放置するわけにもいかない。飛散した放射性物質を回収するために数兆円の費用が投じられた。さらにトリチウムを環境中に排出するのか否か、放射性セシウムを含んだ土壌をどこで最終処分するのか、現時点では明確には決められていない。(放射性セシウムを含んだ土壌は、二〇四五年三月までに福島県外のどこかで最終処分されることが閣議決定されている)
 原発内1、2、3号機内には、推定で合計数百トンもの極めて高い放射能を有した燃料デブリなどが存在すると推測されているが、実際の調査は難航している。二〇一九年には2号機内で遠隔操作のロボットがデブリの小さなカケラに触れることに成功した。カケラの放射能を考えると、このことは大変な進捗なのだが、廃炉措置が完了するためには、数百トンの放射性物質をすべて取り出し、人間が管理する安全な環境下に置かなければならない。これがどれほど困難極める行程であるのか、前段までのくだりで想像がつくのではないだろうか。
 私どもの調査では、二〇一三年から二〇一九年にかけて、原発南側の地下水に原発由来のトリチウムが漏れ出していることを研究論文で公開した(画像参照)。幸い各規制値に抵触するレベルにはないが、敷地境界を越えて地下水を介した汚染の広がりが確認されている。より一層警戒態勢を厳にしなければならない。
 原発の周辺では二〇二〇年三月にJR常磐線が運転再開し、各自治体の避難指示の緩和・解除が進められている。これは人為的な除染に加えて、物理的減衰と雨や風といった自然要因による線量の低下が主たる理由だ。ただ、前者は福島第一原発を抱える大熊町・双葉町に建設された中間貯蔵施設に一時的に除染で取り除かれた汚染土壌が保管されるだけであるし、後者は自然減衰を除けば放射性物質が川や海に移動しただけである。どちらにしても監視体制を怠るわけにはいかない。
 核のエネルギーは、適切な管理下にあればわずかな燃料量で安定した電力を供給可能だ。一方で、管理から外れてしまった放射性物質というものは、エネルギー密度が高い分だけ扱いが大変なものでもあり、長期間、厳重に管理しなければならないのだ。
 事故発生から十年後の現在、多くの方の努力によって、原発は明日をも読めない事態は避けることができている。今後、より重要になるのは、放射性物質をどう取り扱っていくのかという社会的合意のプロセスである。冒頭例に挙げた放出予定のトリチウムは「おおよそ10グラム」でもあり「数千兆ベクレル」でもある。科学的にはどちらの表現も正しい。しかし、発信者の意図や背景によって用いられる言葉は変わってくる。また発信者でなくても媒介するメディアやインフルエンサーによってコラージュされることもある。情報の受け手には議論の根底となるリテラシーの獲得とともに健全な議論が行われる環境が必要であることは言うまでもない。幸い、東京大学にはその機会が十分に用意されている。
 最後に。二〇二一年一月にはコロナ禍のため、東京都内には二回目の緊急事態宣言が発出されている。実は原子力の緊急事態宣言は二〇一一年三月十一日より現在も継続していることも忘れてはならない。

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福島第一原発の空撮とトリチウムを含んだ地下水が漏れ出している場所

(広域システム科学/化学)

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