HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報628号(2021年6月 1日)

教養学部報

第628号 外部公開

<本の棚> 山本芳久 著 『世界は善に満ちている ―トマス・アクィナス哲学講義―』

鈴木貴之

 著者の山本さんと私は文学部哲学科の同期で、それ以来の長い付き合いだ。山本さんは中世哲学、私は分析哲学と専門分野は異なるが、分野の違いに関係なく哲学の議論ができる貴重な相手として、刺激を与え合ってきた。
 さて、山本さんの新著は、そのような個人的な事情を抜きにしても素晴らしい本だ。第一に、本書の記述はきわめて明快で、哲学を専門としない人でも十二分に理解が可能だ。その背後には膨大な研究と思索の蓄積があることは間違いないのだが、それを感じさせない書きぶりには感銘を受けた。もう一点私が素晴らしいと思うのは、一見抽象的なトマスの言葉を豊富な具体例を用いて読み解き、そこにはいまなお価値を失うことのない人間存在に関する深い洞察が数多く含まれていることを明らかにしていく手腕だ。一言で言えば、本書はきわめて地に足のついた哲学実践であり、この点で、すべての哲学研究者が手本とすべき本だ。
 第二に、本書は、トマスの哲学、あるいはより一般にスコラ哲学の論理性を教えてくれるという点でも際立っている。トマス(あるいはその代弁者たる山本さん)は、多様な感情のあり方を分析し、愛を中心としたその体系的な関係を明らかにする。そして、さまざまな疑問に答えることを通じて、この理論体系をさらに精緻なものにしていく。山本さんが示してくれるトマス哲学のあり方は、普段私が接している分析哲学のスタイルとも非常に近いものもので、キリスト教哲学イコール神秘的あるいは宗教的というようなイメージを覆すという点でも、非常に印象的だ。
 第三に、本書で展開されているトマスの感情論、あるいは感情を軸とした人間論は、現代の心の哲学や心の科学に相通じる点を多く含むという点でも非常に興味深い。トマスが「愛」と呼ぶものが、何かが好きであること、何かに価値を見出すことだとすれば、それが人間行動の根底にあるという見方は、たとえばダマシオらの神経科学研究ともつながりうるものだ。このようなきわめて現代的とも言える人間観に、修道士として観想的な生活を送っていたトマスが数百年前に到達していたということもまた、私にとっては驚きだ。
 対話形式の哲学的著作では、対話の不自然さが気になることも多い。しかし、私は本書にはそのような違和感は感じなかった。対話という形をとっているものの、議論がきわめて論理的に進んでいくからだろう。(あるいは、「哲学者」と「学生」の両者に私が山本さんの姿を見ているからかもしれない。現在の山本さんと過去の山本さんのあいだであれば、このような対話があっても不思議ではない。)
 もちろん、哲学を研究するものとして、トマスの理論に疑問が浮かばないわけではない。一つ気になるのは、第八章までと第九章以降とのギャップだ。第八章までの議論では、「愛」は何かが好きであることという広い意味で理解され、その内実は個人によって異なりうるものだとされる。しかし第十章では、愛の対象たる善には、たんに私にとっての善ではなく、客観的な善という意味合いも込められることになる。たとえば、最善の味覚をもつものが最良とするものが、味覚における最良の善だというのだ。しかし、客観的に最良の味など本当に存在するのだろうか。また、味覚における善と聴覚における善では、どちらがより善いものなのだろうか。ここには、かなり大きなギャップがあるように思われる。
 もう一つ気になるのは、適切でない感情の扱いだ。われわれは目先の利益に強い欲望を抱き、長期的には損をしてしまう。身内びいきや異質なものへの嫌悪感は、差別や争いを引き起こす。近年の行動経済学や社会心理学の研究が明らかにしているように、感情は人間に不可欠なものだが、つねに最善の行動を生みだすわけではない。こういった問題について、トマスは何を語るのだろうか。
 哲学科の同期だった山本さんと私は、紆余曲折を経て、駒場Ⅰキャンパス14号館の同じフロアにたどり着いた。人間の心に関心をもつ哲学研究者としても、われわれは、じつは大きな山を別の方向から登っていて、近い将来、思わぬところで出会うことになるのかもしれない。
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 (新潮社、二〇二一年)
   提供 新潮社

(相関基礎科学/哲学・科学史)



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