HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報628号(2021年6月 1日)

教養学部報

第628号 外部公開

<時に沿って> "国際的なこと"について

逆井聡人

 この四月に着任しました、逆井聡人です。日本の近現代文学、特に一九三〇年代から一九五〇年代の日本語で書かれた小説や詩、評論などを中心的な対象として研究をしています。駒場に来る前には、ここから少し西にある東京外国語大学で四年間教員をしていました。二〇一六年の五月にこの駒場で博士号を取ってすぐに外大で新人教員として働き、また駒場に戻ってくるというコースになりました。
 もともと私は早稲田大学の国際教養学部で学部時代を過ごしていました。当時の私はとにかく英語を使って世界を飛び回りたい、と考えていたと思います。今私が当時の自分に言いたいのは、飛行機に長時間乗って世界を飛び回ったら体を壊すよ、ということです。冗談はともかく、私は学部時代から〝国際的な環境〟に身を置いて、日本のことを世界に伝えたいということを理想としてきたと思います。しかし修士課程で駒場に進学し、エリス俊子先生を指導教官として仰いで研究を進めていくうちに分かってきたことは、その理想を思い描く際に私が無意識に前提にしていた様々なことが実のところ私の思考を狭めていたということでした。
 「国際」と言ったときによくイメージされるのは国連会議やオリンピックのようないろいろな国の代表者たちが集まっている様子です。また「日本」と言ったときに考えがちなのは、何かひと塊の、日の丸が背景に透けて見える、サムライやらなでしこやらおもてなしやらの何かです。そして言語というものがそれらに付随するものとして貶められます。私がなんとなく抱え込んでいた曖昧模糊な前提たちはこのようなものでした。しかし、駒場での研究を通して小説の、そして詩の一つ一つの言葉がなぜそこにあるのか、どうしてこの組み合わせなのか、その後ろにどれだけ膨大な意味のネットワークが存在するのかを徹底して考えることを教え込まれたことで、凝り固まった前提たちがぼろぼろと風化していった気がします。
 現在私が主に扱っている文学作品は、日本が帝国だった時代に、その支配下にあった植民地で書かれたもの、あるいはその記憶について書いたものです。日本語を使わなければならず、日本人の振りをしなければならず、また時には日本人でないことを強調させられる。子であること、妻であること、母であることからはみ出てしまうと国民ではなくなってしまう。そういうことが書かれています。そこに書かれている経験は過去のものであっても、実のところ私たちは今もまだその状況の中に生きています。〝国〟の外での〝異文化理解〟が強調されてきましたが、実際起きていることは〝国〟の中で設定された前提から異なる人々を排除し続けることです。コロナ禍にあって、この事態は加速する一方です。
 これから大学の国際化はどうなるのでしょうか。駒場はその答えを求められるし、私たちはそこに身を置くことになります。私はまずは一つ一つの言葉を大切にすることから始めようと思います。

(言語情報科学/英語)

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