HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報629号(2021年7月 1日)

教養学部報

第629号 外部公開

紙のノートの脳科学的効用

酒井邦嘉

 講義をやっていて苦しいのは、学生が終始無反応のときです。これは「のれんに腕押し」の状態で、自分のエネルギーが吸い取られてしまうように感じられます。オンライン講義でみんながビデオを切った状態では、自然にうなずく仕草すら見えないので、その傾向が強まります。そんな中さらに不安を感じるのは、講義中に学生がどの程度ノートを取っているかが見えないということです。ここ数年来、机上にノートや筆記用具を置かずに受講する姿が目につくようになりました。中にはパソコンでメモを取っている学生もいますが、スマホを片手にただ聞いているだけ、という学生も少なからずいます。その背景には、小学校などで「話しを聞くとき」と「ノートを取るとき」を分けるよう指導している実態があり、「話しを聞きながら考え、メモを取る」というマルチタスクが、もはや身についていないようなのです。教科書がデジタル化され、タブレット端末だけを使うようになったら、生徒や学生は全くノートを取らなくなってしまうかもしれません。そのような学習で、記憶はどの程度残るものでしょうか。
 先日われわれのグループは、「紙の手帳」の脳科学的効用について調べた論文(Umejima et al., Fron­tiers in Behavioral Neuroscience)を発表して、使用するメディアによって記憶力や脳活動に差が出ることを明らかにしました。参加者は十八~二十九歳の四十八人(東大生および一般公募者)で、手帳群・タブレット群・スマホ群(各十六人)に分けました。参加者は会話文を読みながら、スケジュールの情報を紙の手帳(四色ペンを使用)、タブレット(スタイラスペンを使用)、スマホ(フリック入力か仮想キーボードを使用)のいずれかでカレンダーに書き留め、それから一時間後、スケジュールに関する問題に解答しました。その解答中の脳活動をMRI装置で測定した結果、タブレット群やスマホ群と比較して、手帳群の方が、記憶の想起に対する脳活動が確かに高くなったのです。言語に関係する脳の領域や、記憶処理に関係する「海馬」に加えて、視覚を司る領域でも活動の上昇が観察されました。このことから、記銘時に紙の手帳を使うことで言語化や視覚的イメージの機能が促進され、電子機器を用いた場合よりも一層豊富で深い記憶の情報が得られることがわかります。
 紙の教科書やノートを使って学習する際には、そこに書かれた言葉の情報だけでなく、紙上の場所や書き込みとの位置関係といった視覚情報などを、同時に関連付けて記憶されます。実際、ノートのどこにどのように書いたかという具体的なエピソードをもとにして、書かれた内容をかなり正確に思い出せるものです。ところが電子機器では、画面と文字情報の位置関係が一定ではなく、各ページの手掛かりが乏しいために、空間的な情報を関連付けて記憶することが難しいのです。このように紙は想起の際の手がかりが豊富なので、記憶の定着に有利ですから、その高い記憶力を元にした新しい思考や創造的な発想に対しても、大いに役立つと言えるでしょう。
 大学生を対象としたアメリカのミュラーとオッペンハイマーの研究(二〇一四年)では、講演のビデオ(TED Talks)を見て手書きでメモを取った群と、パソコンを使用した群を比較して、概念的な質問に対しては、前者の方が成績が高かったことを報告しています。パソコンで記録するときには、速くタイピングができる分、聞いたことをそのまま打ち込んでしまいがちです。それに対して手書きは遅いので、キーワードを見つけながら短くまとめる必要があります。昨今の記者会見ではほとんどの記者がパソコンにタイプしていて、以前と比べて有意義な質問が減ったと言われます。「ペンはキーボードより強し」というわけで、使用するメディアによって、情報の咀嚼のしかたが変わってくるのです。
 以上のことから、「思考の道具」として最適なのは、ハイテクの電子機器より「紙のノート」、いわゆる「大学ノート」だと言えます。講義中に生じた疑問は紙のノートに書き留めて、解決するまで覚えておきましょう。学生から返ってくる活発な質問は、教員のエネルギーを倍増してくれますから。

(相関基礎科学/物理)

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