HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報629号(2021年7月 1日)

教養学部報

第629号 外部公開

<本の棚> 中澤公孝 著 『パラリンピックブレイン』

工藤和俊

 私たちの身体は、身体を取り巻く環境がそうであるように、止まることなく変化し続ける中で束の間の平衡状態を保っている。身体はまた、やはり環境がそうであるように、思いがけぬ原因で激変することがある。不慮の事故等を原因として生じる身体の非定型的な激変は一般に「障がい」と呼ばれており、しばしば身体自由度の低下すなわち「不自由」として捉えられる。
 たとえば眼を閉じてみると、この激変を部分的に体験することができる。立ち上がって歩こうとしても足元が覚束なくなり、身体を確実に支持してくれるはずの地面が心許なく朧げな存在と化す。あるいは、さまざまな所作をすべて片手で行おうとすると、途端に数々の不便が立ち現れてくる。
 「健常者」と呼ばれる人々がそのような不自由を感じる世界において、障がいを有する人々は経験と練習を重ね様々な資源を利用してその不自由を克服している。本書にはその具体例が豊富に紹介されている。本書のタイトル「パラリンピックブレイン」とは、パラリンピアンに代表されるような「障がい者」の驚くべきパフォーマンスを支える脳を意味する著者の造語である。
 身体の障がいとは個性である、と著者はいう。付け加えるならば、少数者の個性といえるであろう。その個性のもとでパラアスリートたちは、多数者である「健常者」が普段気づくことのない豊かな感覚情報を知覚し、利用可能な身体資源を最大限に活用して様々なスポーツ種目に挑んでいる。この挑戦を支えているのが、脳を含む身体の再組織化能力である。たとえば脳機能画像を用いた著者らの研究により、義足の走り幅跳び選手では、健常者において通常使われることのない脳からの同側皮質脊髄路が活性化していることが明らかになった。また、脳性麻痺によって半身の運動障がいを有する水泳選手では、陸上で出現する筋の不随意収縮が水泳時に消失しており、陸上で発揮される最大筋力を超えた筋電図が水泳時に記録されていた。
 このような身体の再組織化による運動パフォーマンスの実現に加えて、パラリンピック競技では健常者を凌駕する記録が打ち立てられている。下肢に障がいを有している人々がベンチプレスの挙上重量を競うパワーリフティングにおける世界記録は二〇二〇年三月時点で三一〇キログラムであり、これは健常者の記録を一〇キログラムも上回る。また日常的に車いすを使用している競技者の中でも、とりわけ障がい程度が重い脊髄完全麻痺を有する人々は、手指を用いた精緻な力調整において健常者を超えた安定性を実現する。
 本書には、脳機能画像、脳への磁気刺激、筋電図など様々な手法を駆使してこれら数々の知見の背後にある神経科学的機序に迫る著者らの研究過程が、そのパフォーマンスを目前にしたときの驚きとともにありありと描かれている。また本書には、これらの最先端研究に加えて、スポーツがリハビリテーション治療に利用されてきた歴史や、著者の専門であるニューロリハビリテーションの入門的紹介、さらには人間の運動制御に関わる神経系の概要まで盛り沢山の内容が込められており、ニューロリハビリテーション分野への入門書としてもお勧めできる。また、本書に紹介されている様々な発見が単なる幸運によるものではなく、これまで著者の研究室において積み上げられてきた基礎研究の蓄積があってはじめて実現していることも付け加えておく必要があろう。
 自律的な内部環境を有し外部環境に対して開かれている身体は、仮に環境が激変しても、内外の資源を利用して課題解決への糸口を見出そうとする。そのような再組織化を可能にするのは、身体部位の柔軟な役割分担、新規な自由度の参入、多様性の重視、潜在機能の活用といった、厳密な身体制御からは一見離れているように思える特性や要因である。本書に示されている数々の事例は、多数者としての「健常者」が見過ごしている情報や資源、あるいは予測しえない環境のなかで柔軟にふるまうために必要な要因を「障がい者」と呼ばれる少数の人々が活用していることを教えてくれる。その意味において、少数者の感性とは変わりゆく世界の様々な課題を解決するための叡智なのである。

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(東京大学出版会、二〇二一年)
  提供 東京大学出版会

(生命環境科学/スポーツ・身体運動)




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