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最終更新日:2023.11.08

教養学部報

第629号 外部公開

<本の棚> 田中純 著 『デヴィッド・ボウイ 無(ナシング)を歌った男』

星埜守之

 四月X日、田中純氏の表題作を回収しに大学のメールボックスに立ち寄った。迂闊ながら、この書評をお引き受けした時点では現物を手に取ってはおらず、その重厚さにまず圧倒される。なにしろ、本編だけで二段組み五四五ページ、跋文から注、資料編、索引も含めると、総ページ数六百を優に超える大著である。少々たじろぎながらも、序文にあたる「鉱石ラジオに始まる」に目を走らせる。序文は、著者が一九七二年のある日、デヴィッド・ボウイという稀代のロックアーチストの楽曲に初めて接した経験から書き起こされていた。曲名は〈スターマン〉。少しだけ、胸のどこかが震える。十代の私が初めて耳にし、今でもそのメロディ、それに歌詞のほんの一部を頭のなかで再生できるデヴィッド・ボウイの曲が、まさに〈スターマン〉だったからだ。ただし、私がボウイをリアルタイムでフォローしていたのはこの曲を収録したアルバム『ジギー・スターダスト』止まりで、二〇一六年に『★(ブラックスター)』を聞くまで、つまり四十年以上、ボウイは私にとってほぼノーマークの存在のままだった。
 目次に進む。全体は八部構成となっており、そのなかに配された十三の章の大部分は、ボウイのレコード(CD)アルバムを年代順にそれぞれ一作ずつ扱い、さらにはアルバム内のほとんどの楽曲について、濃淡の差はあれ、詳細な解説と周到な解釈が展開されている。つまり、各章が概ね、ひとつのアルバム作品の詳細なライナーノーツの体裁をとっている。一方、今日ではボウイのアルバムはすべて、YouTubeを始めとして、インターネット上で聴取が可能であり、ミュージックヴィデオも同様に視聴することができる。歌詞カードにあたるものを参照できるチャンネルも当然存在する。そんなわけで、この日から、ネットでボウイのアルバムを聴き、田中氏による「ライナーノーツ」を読み、あるいは、その逆にライナーノーツからアルバムの聴取へ、といった具合に、デヴィッド・ボウイを集中的に再訪する旅が始まった。
 そんな日々に、最後のアルバム「★」を聴き終え(本書を読み終え)ることでひとまず区切りをつけた今、あらためて強く思うのは、デヴィッド・ボウイという多面体の驚くべき豊饒さであり、重層性である。『ジギー・スターダスト』に収録された〈ロックンロールの自殺者〉から伺えるように、一九六〇年代と七〇年代のあわいに頂点を迎えたかに見えるロックミュージックの生と死―ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、さらにはマーク・ボランの死や、ビートルズの解散なども思い起こされよう―から一定の批評的な距離を取りつつも、ボウイはその残存のかけらを再解釈しながら、狭義のロックミュージックの枠をはるかに超えて、いわばロックの「後の生」を身をもって生きたように見える。田中氏の筆致はまた、ボウイの歌詞に反響している―シェイクスピア、ニーチェ、現代アートから三島由紀夫にいたる―数々の参照項を丹念に掘り起こし、デヴィッド・ボウイという文化現象の恐るべき広がりと深さを垣間見させてくれる。さらに、ボウイが歌いバンドが演奏する「音」についての数々の考察―歌唱における特定の発音の重要性、楽曲のコード進行、レコーディングにおけるエフェクターも含めた音作りの分析等―も、本書の記述にしかるべき厚みをもたらしているだろう。
 けれども、本書の射程はそれだけには収まらまい。本編最後の「結」の部分に現れているように、著者はボウイを論じる中で浮上させてきた様々なテーマを、学際的な地平にのぼせようと試みる。ボウイの歌の「喃語」的な側面はロマン・ヤコブソンの言語理論に、ロックンロールのシャーマンとしてのボウイをスティーヴン・フェルドやカルロ・セヴェーリの民族誌に、ボウイのいわば「ピエロ性」をジャン・スタロバンスキーの描き出す「芸術家の肖像」に接続する展望は、いまだ謎の多いデヴィッド・ボウイを、さらにはその「後の生」も含めたロックという領域を探究するためのヒントを与えてやまない。
 いま、この文章を書き終えつつ、ふたたび、『★』を聴いている。思えば、デヴィッド・ボウイが六十九年の人生を終えて旅立ったのは、このアルバム発売の二日後のことだった。

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 (岩波書店、二〇二一年)
   提供 岩波書店

(言語情報科学/フランス語・イタリア語)

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