教養学部報
第630号
<本の棚> 清水剛 著 『感染症と経営 ―戦前日本企業は「死の影」といかに向き合ったか』
橋本摂子
パンデミックの渦中にある現在において、忍び寄る「死の影」は企業経営にどんな影響を及ぼすのか。本書は、戦前期における日本の企業経営史をひもとき、人々が同じく死に至る感染症にさらされていた時代の労働者・消費者・株主(投資家)の動向から、「コロナ後」に向けた企業経営の指針を見出そうとする。「死の影の下にある」とは、死が現実的な可能性として人々の日常に遍在することである。無論、コロナ以前の暮らしに「死」がなかったわけではない。しかし世界でも一、二位を争う高齢化、長寿化が進む日本社会において、将来の不確実性は、主として「(余)生」の長期化に淵源してきた。人々の意識が老後への備えに集中するなか、新型コロナウィルス感染症の席捲は、改めて「死」が唐突に訪れるものでもあることを喚起したように思う。定年後、あまりにも長く生きるかもしれない、あるいはその前にあっけなく死ぬのかもしれない、こうした遠近感の揺らぎと将来の不確実性の増大に対し、人と企業はどのような関係のもとで共存・発展しうるだろうか。
一章では戦前の紡績女工を題材に、労働環境の改善(死のリスクの抑制)によって人的資本の蓄積を促し、企業利益につなげる動きがあったこと、二章ではそうした試みが、戦後の繊維産業における独自の福利厚生─企業による女子労働者たちへの教育機会の提供、および企業スポーツを介した職業威信の回復─へと結実する様子が描かれる。
三章では消費者に焦点を移し、戦前期から続く流通変革の核心が、消費者保護と顧客/企業間の信頼関係醸成にあったことが指摘され、続く四、五章では株主(投資家)の経営への「引き込み」と「共存」によって長期的視野にもとづく合理的経営計画の策定が可能になること、その土台となるのは企業の永続性であり、それによって初めて企業は利害関係者の盾として、将来の不確実性の低減に寄与しうることが示され、六章では永続化する企業と渡り合うには労働者側に移動(可能)性を確保しなければならないことが論じられる。
社会階層論の視点から整理すると、一、二章は主にブルーワーカー層、三章では中間層、四章以降は経営・役員層を含むホワイトカラー層をカバーしている。終章に各章の簡潔な要約があるので、正確な内容はそちらを参照されたい。企業とは「人々が協力して不確実性に立ち向かうための仕組み」(一四八頁)であり、その第一義は「利害関係者の幸福」(一四九頁)にあり、自身の存続それ自体にはない、とされる言が特に印象的であった。
やや乱暴なまとめとなるが、①将来への不確定性をコミュニケーションに基づく信頼で補い、②個人の側に移動/選択(可能)性を確保し、③企業/個人間のパワーバランスを保つことが、より幸福な関係構築につながる、これらが本書で提示される企業と人との望ましい共存条件となるだろう。ただし正直に言えば、②③は実感をともなうものの、①の「勤め先を信頼する」ということが、私にはどうもピンと来なかった。というか、果たして私はこれまで「勤め先」を「信頼」したことがあっただろうか(反語的表現)。永続性は高そうだが、だからといって特に信頼感の醸成には至らない(むしろ黒歴史に不信が募る)。うーん、と考え込んでいたのだが、ふと雇用関係を婚姻関係に置き換えてみたところ、なぜかストンと腑に落ちてしまった。あ、なるほどです、はいはいはい。ということは、もしかしてこの話、企業を超えた組織一般と個人の健全な関係についてかなり普遍的に言えることで、さらに言えば「企業」とは別の縛り、たとえば人が持つ組織への愛着だとか帰属意識だとか(清水先生がお持ちで私に欠落している美しいなにか)を前提していないだろうか─こうした個人的な疑問については、同僚の特権として、直接ご本人におうかがいすることにしたい。
最後に、災害は何か新奇で特殊な事態を引き起こすわけではない。それがもたらすのは、つねに既存の問題の顕在化と先鋭化であり、問題自体ははるか前から存在している。その意味で、本書で示されるのは非常事態に限定された特別な処方箋ではなく、今後の成り行き如何を問わず当たり前に大切な事柄である。だが「死の影の下」にある今だからこそ、普段は届かない層にまで届けられるのではないか。そうした想いから、広く読まれてほしい一冊である。
(中央経済社、二〇二一年)
提供 中央経済社
(国際社会科学/社会・社会思想史)
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