HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報630号(2021年10月 1日)

教養学部報

第630号 外部公開

<本の棚> 加治屋健司 編 『宇佐美圭司 よみがえる画家』

田中 純

 二〇一八年春に明らかとなった、東京大学中央食堂の壁面に掛けられていた宇佐美圭司氏の作品《きずな》が、食堂改修に際して廃棄されていたという事件は衝撃だった。本書は、この《きずな》ほかの宇佐美作品の再制作を中心に駒場博物館で開催された、同名展覧会のカタログである。《きずな》制作のきっかけとなった高階秀爾氏をはじめとする関係諸氏による論考に加え、直接展示されなかった重要な作品の図版も掲載され、さらに宇佐美氏の代表的な芸術論二篇が再録されているうえに、詳細な年譜・展覧会歴・文献目録まで備えた、「よみがえる画家」という名に恥じない、堂々たる宇佐美圭司作品集である。
 三浦篤氏が本書で述べているように、この展覧会はたんなる回顧展としてではなく、「美術における再制作」というテーマのもとに企画された。その成果が博物館の壁面に映写された《きずな》の再現画像や、レーザー光線を用いた《Laser: Beam: Joint》の再制作作品である(後者の制作には総合文化研究科のレーザー物理学の専門家が協力している)。駒場博物館にはマルセル・デュシャンの作品《大ガラス》のレプリカが常設されており、なおかつ、宇佐美氏にはデュシャン論の著書があるなど、この画家と再制作というテーマ、そして、駒場という場所は複数の縁で結ばれていたと言えよう。
 この点に触れるのは、本書を通して知ることのできる宇佐美氏の作品と思想は、総合文化研究科・教養学部にふさわしい、文理融合、いや、文理一体のリベラル・アーツ的な知の産物であるように思われるからである。三浦氏は宇佐美氏を「レオナルド・ダ・ヴィンチの系譜にたつ画家」と評している。本書所収の論考「芸術家の消滅」で宇佐美氏自身が、「美術こそ最高の知性の表現である」としたダ・ヴィンチに言及し、「『知性の表現』あるいは、『思考操作としての美術』の復活」を説いている。漫然と絵画作品を見るだけでは逃れられない、「見ること」や認識行為の制度的・検閲的な束縛から想像力を自由にするためにこそ、鑑賞者による新しい発見を促すような、精緻な「思考操作」が宇佐美氏の作品には埋め込まれている。宇佐美作品を「見る」喜びは、精密に組み立てられた機械のメカニズムや論理の体系を、知的かつ感覚的に理解する際のそれに似ている。
 編者である加治屋健司氏の論考は、宇佐美氏の作品をグローバルな視点から美術史的に丹念に位置づけており、この画家が「世界的な文脈」で評価されるべき意義を鮮明にしている。宇佐美氏と深い親交関係にあった岡﨑乾二郎氏による「宇佐美圭司の肖像を描くための補助線」は、岡﨑氏という傑出した造形作家・理論家にとって宇佐美氏との出会いがいかに決定的なものであったかを、努めて歴史的視座から物語ることにより、宇佐美氏の制作活動が同時代の文脈で有していた独自性をおのずと浮き彫りにしている。
 岡﨑氏はそこで、《きずな》にも用いられている、宇佐美作品の中心的モチーフである四つの人型のうちに、「それぞれが勝手に行動しているように見えながら、それぞれの運動が奇妙に同期して見える様」を認めている。そこには眼に見えないネットワークがある。岡﨑氏はそんなネットワークを、宇佐美氏と自身、さらにはほかの芸術家たちとのあいだに見出している─「孤立した思考は(もし、それが思考として自ら、一貫した一つの系を組織しているならば)かならず、他の孤立した思考と見えないネットワークで強く連結されているはずなのだ」。この「きずな」こそが、芸術を生み出す。岡﨑氏のこの一文は、宇佐美氏への思いの込められた追悼であると同時に、後続する世代に向けた力強いエールでもあるように思われた。
 本書に再録された宇佐美氏の論考二篇は、哲学の論文にも思えるほど、難解に感じられるかもしれない。しかし、それはこうした「見えないネットワーク」にしっかりと連結されているがゆえに、挑戦しがいのある難解さである。現代美術は自分とは無縁と感じている学生の皆さんにこそ、本書を通じて、宇佐美圭司が残した「見えないきずな」の一端に触れてほしいと、心からそう願う。

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(東京大学出版会、二〇二一年)
提供 東京大学出版会

(超域文化科学/ドイツ語)



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