HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報631号(2021年11月 1日)

教養学部報

第631号 外部公開

歴史紛争のもと?世界遺産から考える

外村 大

 毎年、ユネスコ世界遺産委員会が開かれる時期になると、日本国内でも関連報道が増える。今年は、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」(自然遺産)や「北海道・北東北の縄文遺跡群」(文化遺産)の新たな登録が決まった。身近に知る関連遺跡や地域が登録され、喜んでいる人びとも多いだろう。私も例外ではない。ただここで、世界遺産はお国自慢の競争ではないことにも注意しておきたい。
 世界遺産への登録は、Outstanding Univer­sal Value、略してOUV、日本語では「顕著な普遍的価値」を有すると認められることが条件である。OUVとは「国家間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来世代に共通した重要性をもつような、傑出した文化的な意義及び/又は自然的な価値」と定義される。なるほど、国の枠組みにとらわれていない、と思わせるようなものもある。例えば、二〇一六年には、ドイツの申請した「協同組合において共通の利益を形にするという思想と実践」が登録されている。
 そうではあるのだが、どうも東アジアでは世界遺産に関連した国家間の葛藤が起こりがちである。今年は、すでに登録済みの「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に関する勧告が注目を集めた。日本政府は、二〇一五年の登録に当たり、情報センターを作って「意思に反して連れて来られ、厳しい環境下で働かされた朝鮮半島出身者」についても説明することを約束していた。ところが、その後できた情報センターの展示内容が不十分であると指摘されたのである。
 これをめぐる議論は、日韓の歴史問題の枠組みでとらえられがちだ。もちろんその要素もある。ただし産業革命遺産に関連する労働現場で、酷使されていたのは朝鮮人ばかりではない。近代初期の日本の炭鉱等では、囚人やそこで働くほかなかった貧困者、騙されて連れて来られた者など、日本人への虐待や強制労働があった。ちなみに元炭鉱労働者・山本作兵衛の絵(これはユネスコの「世界の記憶」に選定されている)にはその様子が描かれている。そもそも近代化の産業発展の過程では、奴隷労働が横行したり、マジョリティが嫌がる職場に移民を配置したりということは、世界のどこでも起こっていた。オーストラリアの囚人遺跡群などはそうした歴史を重視して登録された世界遺産として著名な観光地となっている。
 とすれば、産業革命遺産についても、ユネスコの勧告に従い、労働者の苦難も含めて説明すればよいはずである。だが、現状の日本の世論の一部には、韓国に負けるなというがごとき声高な主張もある。
 その原因は様々な推測が可能だが、日本人の近代史理解の核に、アジアの他国に先駆けて産業化=近代化した「栄光」への誇りがあることが関係しているかもしれない。それが、アジアのほかの国への優越感や、悲惨な労働、とりわけ他のアジアの民衆の犠牲に触れたくない、という気持ちにつながっているのではないだろうか。
 だが、自分たちが最初に近代化したことが、他国より優越している根拠にはならないだろうし、西欧に追いついただけ、という見方もできる。また、産業化がもたらした物質文明を手放しで評価できないのはもはや常識だろう。そして日本の中には大切にして誇るべき文化や歴史はほかにもあるし、そのなかには、東アジアの他地域との豊かな交流の中で生まれたものも多い。こうした認識が広がらない限り、今回の産業革命遺産をめぐる歴史認識の葛藤は解消されないのかもしれない。
 もっとも、それは古い世代の杞憂である可能性もある。駒場で学ぶ若い世代の人びとにとっては、日本の近代化が単純に素晴らしいといった意識はおそらくないはずだ。また、国際社会で自国、自民族のみが正しいかのような話が通用しないということも十分承知だろう。
 とは言え、偏狭なナショナリズムに染まるのは旧世代だけというわけでもない。自国、自民族にだけ都合のよいように捻じ曲げられた言説を信じて語り、誰かを傷つけるという失敗は誰もが犯しうることである。大学内も含め、日常的に接する、日本社会の構成員が、国籍、民族でも相当に多様化している今日、その点は十分認識すべきだ。
 その意味で、歴史をどう学び、語るかは、重要性を増している。様々な国や地域、民族の関連や比較、そこから見えてくる歴史事象の普遍性などを念頭に置くことが求められるし、大前提として何が史実であるか、通説として定着しているかを把握する必要がある。簡単に見えてもその作業は難しい。歴史研究を仕事とする者が存在するのはそのためである。ただ、「専門家」だけが、歴史を扱えばよいというわけではもちろんない。「歴史を使う」場面は誰にでもある。
 そんなわけで、受験での歴史学習にうんざりした経験を持つ人も含めて、多くの学生が歴史の方法、考え方の基礎を身に着けてほしいと切に願う。なお手前味噌となるが、教養学部歴史学部会編『歴史学の思考法』(東京大学出版会、二〇二〇年)は、その入門書として最適のものと信じている。未読の方はご一読を。

(地域文化研究/歴史学)

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