HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報632号(2021年12月 1日)

教養学部報

第632号 外部公開

<本の棚> 森山工 著『贈与と聖物 マルセル・モース「贈与論」とマダガスカルの社会的実践』

山田広昭

 いつまで遡るべきかは分からないが、贈与をめぐる問題は、近年の思想界におけるもっとも重要な問いの一つとなっている。社会人類学や歴史学はいうにおよばず、哲学や政治思想、社会運動の現場にいたるまで、こんにち贈与に向けられている視線はきわめて熱い。そしてモースが一九二〇年代半ばに世に問うた「贈与論」は、この主題が呼び起こすあらゆる探求の尽きることのない源泉であり、回避不可能な参照先でありつづけている。本書の著者は、七年前にこの「贈与論」の新訳を、続いて三年前に、モースが未完のままに残した『国民論』の最初の日本語訳を、ともに岩波文庫で刊行した。これは日本のモース受容史におけるひとつの事件である。とりわけ、両書につけられた訳者解説は、モースその人と「贈与論」について漠と思い描かれていたであろうイメージをまちがいなく刷新するものであり、私はそこに自分が知らないでいたモースを発見した気がしたが、同じ感慨を覚えた人は多くいたに違いない。
 本書もまたひとつの事件となるだろう。これはおそらく著者以外には書くことができない種類の著作である。その理由を述べるためには、本書の構成について触れなければならない。本書は三部からなる。第一部は、「贈与論」の精密なテクスト分析にあてられている。およそ古典としての地位を占めるに至ったあらゆるテクストがそうであるように、「贈与論」もまた、単線的、一義的読解を許さない。著者が注目するのはポトラッチ(闘技的蕩尽的「贈与」)とクラ(首飾りと腕輪という象徴的財の循環的「贈与」)という民族誌的には区別されるべき二つの体系が、モースによって、その関係を問われることなく、ただ並列されているという事実である。著者はそこに贈与と交換の差異についてのモースの無自覚を見いだす。贈与が返礼をともなう、少なくとも返礼が期待されているという事実に目をくらまされてはならない。交換を交換たらしめているのは、最初に与える者が返礼を「要求する権利」をもつということであって、これはクラには当てはまってもポトラッチには当てはまらない。両者を贈与交換という言葉で安易に等置してしまえば、この差異が覆い隠されてしまうと著者はいう。
 しかし、本書の真のオリジナリティはここから先にある。贈与と交換とを峻別しつつ、著者は「贈与論」には、隠された第三のテーマがあるという。それが「譲りえぬもの」である。モースは目立たない仕方ではあるが、しかし確実に、その所有者にとって、贈与の対象にも、交換の対象にもならないものがあることを指摘している。その保持者にとって「聖物」として現れるこのものは人間とその社会にとっていかなる意味をもっているのか、そして「譲りえぬもの」と「贈与」との間にはどのような関係があるのか。それが第二部と第三部を貫く問いとなる。著者はここでテクスト分析からいったん離れ、マダガスカルにおける自身のフィールドワークに立ち戻る。調査の対象となったのは、シハナカと呼ばれる人々の祖先の遺体に対する向き合い方であり、とりわけその埋葬形態(墓の形態)の変遷である。本書が著者ならではの書物だと言えるのは、かつては土中で朽ちるにまかされた遺体を「譲りえぬもの=聖物」として捉える着想が、フィールドワーカーとしての仕事に加えて、モースのテクストに長年、著者自身の表現を借りれば、フェティッシュとして向き合ってきた者からしか生まれえないと思われるからである。
 本書は、墓標すらもたない土の墓から石の墓への遺体の移送、さらには墓のそのものの増殖という事態を通じて、「親族の基本構造」(レヴィ=ストロース)とは区別されるものとしての「家」の生成を論じていくが、その論述を追う紙幅はない。ただ、著者がその中で「自」と「他」、あるいは「同」と「異」との境界の確定が、「他」による「自」の承認というプロセスなしにはありえないこと、そのためには「自」の一部を「他」へと贈与することが不可欠であること、そしてそこから、まさに「あいだの倫理」と呼ぶべきものが立ち上がることを指摘していることは強調しておきたい。
 もちろん、あらゆるテクストは複数の解釈と討議に向かって開かれている。本書における議論も例外ではない。しかし、本書が専門分野を問わず、贈与に関心をもつ人に広く読まれるべき書物であることに疑いはない。

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(東京大学出版会、二〇二一年)
提供 東京大学出版会

(言語情報科学/フランス語・イタリア語)



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