HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報632号(2021年12月 1日)

教養学部報

第632号 外部公開

<駒場をあとに> 三層の甘いケーキと渋めのお茶

中尾まさみ

 一九九六年三月半ば、四月に着任することになっていた私に一本の電話がかかってきた。大学院の同級生で先に駒場に勤めていた内野儀さんからで、「中尾さんには四月から『英語Ⅰ』で仕事をしてもらうことになっていて、ちょっと早いけれど新学期に向けた来週の会議に出ませんか。」というお誘いであった。前期部会が英語になることは知らされていたが、辞令ももらっておらず、「英語Ⅰ」が何であるかも知らない私を春休みから働かせようとするとは、何という職場に向かおうとしているのか、と不安を感じたのを覚えている。私の二五年に亘る駒場での生活は、こうしてやや渋めの味わいを以て、「英語Ⅰ」から始まった。オリジナルの教科書、視聴覚教材、ワークシートを使ったこのまったく新しい大規模必修英語科目はまだ始まって三年で、当時10号館にあった準備室に教員、嘱託職員、TAが大勢出入りし、繁忙期の町工場のような活気をもって運営されていた。「授業以外の時間はなるべくここにいて、仕事は見ながら覚えてよ」という徒弟制度の親方のような佐藤良明さんの言葉にまたまた驚かされながら実際ここで最初の数年を過ごした私は、「英語Ⅰ」に関する業務のみならず、駒場の生活のイロハを先輩教員たちとの会話のうちに教えられたのである。
 そこでの仕事は忙しかったが、何より教育の手応えを感じられる仕事であることが楽しかった。この「英語Ⅰ」から始まり、前期英語はこの三十年弱、大小さまざまな改革を繰り返してきた。部会の一員として私自身もその流れに身を置き、とくに「学部教育の総合的改革」(二〇一五年)を計画・準備する時期に部会主任を務めたことと、その前後に部会の将来計画に関わったことで、前期英語教育の理念的な側面についても考える機会を与えられた。その際、しばしば振り返ることになった私の原点は、草創期の「英語Ⅰ」準備室での議論の熱気にあったのではないかと、今にして思う。
 少人数科目の多い後期課程では、学生との関わりはより密になる。所属するイギリス科(現コース)の学生たちが、二年半程つき合う中で目に見えて成長する姿は眩しかった。一方、私の専門とする英語圏の現代詩の授業には、教養学部の構成上、普段は全く別の分野を学んでいるという学生も多く受講したが、私にはそれがまた面白かった。辞書を頼りに丁寧に詩を読み、作品に付随する要素を調べつつ自由に分析を加えてゆくプロセスは、異なる関心や知識をもつ集団で意見を交わすと驚くほど新鮮な刺激を与え合う場になる。卒業後の進路に詩を読む能力はそう関係なさそうな学生たちが熱心に一行の含意を論じ合う時間は、実学とはまた違う意味をもつと信じたいし、少なくとも私自身にとってはこの仕事についてよかったと思える幸せなときであった。
 大学院で所属した地域文化研究専攻は、様々な地域の様々な分野を専門とする同僚といっしょに仕事をする、駒場の醍醐味を感じられるコミュニティであった。シンポジウムや科研などで研究について話をする機会ももちろんだが、会議の合間や教室から研究室に戻る道すがら、ちょっとした雑談をする短い時間が、この上なく貴重に思えた。大学院の授業では、関連分野を研究する院生が、本郷も含め専攻・研究科を横断して集まる。私の場合、アイルランドの文学や歴史に関心をもつ学生が多く、授業以外に集中的に研究会をやろうということで、二〇〇八年に「W・B・イェイツ研究会」を立ち上げた。この研究会はこの原稿を執筆している時点で一二五回続いている。メンバーの出入りはあるものの、第一回から続けている人たちもいて、その多くはもう大学教員・研究者として独り立ちしている。二〇一二年に駒場美術博物館で開催した「W・B・イェイツとアイルランド展」は、この研究会メンバーの尽力なくしては実現しなかった。アイルランド大使館の協力で本国から劇作品の仮面、東大図書館から初期の翻訳や初版本、新聞などを集めて展示するとともに、同僚の河合祥一郎さんの力強い協力を得て、能『錦木』に影響を受けた詩劇『骨の見る夢』の上演と詩の朗読の催しを行ったことも忘れがたい思い出である。
 大学教員の仕事は、研究・教育・行政に亘り、中でも一、二年生の全員を含む前期課程、後期課程、大学院の三層の学生を預かる駒場では、教育にかかる比重が大きいことが日々の仕事量を増やしている。しかし、その各層に関われたこと、そしてそのそれぞれで研究・教育・行政が分かちがたく結びついていたことが、私には幸せなことであった。もちろん、時には渋い思いを味わうこともあったが、それもまた大事なアクセントである。温かくお付き合いくださった同僚のみなさん、いつも有能かつ寛大に導き支えてくださった職員のみなさん、そして多くの喜びを与えてくれた学生のみなさんに、心よりの御礼を申し上げたい。ありがとうございました。

(地域文化研究/英語)

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