HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報633号(2022年1月 5日)

教養学部報

第633号 外部公開

<駒場をあとに> 駒場の風景

中澤恒子

image632_01_1.jpg 駒場には毎年変わらない美味しいものがある。季節の巡りに合わせて駒場の風景も変わるが、春になれば一巡り、二十五年間、繰り返し眺めてきた風景だ。
 これを書いている秋の季節、銀杏並木のギンナンを知らない駒場関係者はいないだろう。知らずに済ませたくともあの強烈な匂いは避け難く、並木道一面に散ったその実を避けて歩くことは難しい。(なぜ実のなる雌の木ばかりが並んでいるのか、今も私は不思議に思っている。)知らずに踏んでしまうと「しまった」と思うくらい一般的にはやっかいものではあるけれど、ギンナンが食べられるものであることを知らない人もまたいないと思う。問題は種の外側の実の部分で、取り除く手間とギンナンを食べたい心のせめぎ合いになる。私が学生委員長をしていた時に、きれいに洗ったギンナンを「合格銀杏」と称して駒場祭で売っているサークルがあって、手間をかける根気に感心した。
 ギンナンとほぼ同じ季節、キャンパスのあちらこちらにはドングリが落ちる。ギンナンと違って踏んでも靴裏に張り付くこともないし、匂いもない。むしろ踏んだ時にプツプツという乾いた快感がある。秋学期が始まる忙しい時期、先生も学生も踏みしだきながら教室に向かう途中で特に意識もしないが、実はドングリは食べられる。マテバシイの実は皮を割って(暇な時はさらに渋皮をむいて)中身をそのまま食べる(炒って食べると書いてあることもあるが、生のままの方がおいしい)。栗の味に似ていて、ほんのり甘い。マテバシイよりさらに美味しいスダジイを以前からキャンパスで探してきたが、未だ見つからない。ドングリの季節以外に種類を見分けられるほど私はブナの木に詳しくはないので、そのうちに生物の先生に教えを乞おうと思っているうちに二十五年が過ぎてしまった。
 冬の始めになると夏ミカンが色付き始める。駒場にはたくさんの夏ミカンの木がある。とても、とても、酸っぱい。大方はジャムやジュースに加工しないと食べられないくらい酸っぱい。私はそのまま食べられる実のなる木は特定の一本しかないと思っているが、中にはそれでも食べられないと言った人もいるし、どの木でもそのまま食べたという強者も知っている。冬の夏ミカンは酸っぱいので木成りで初夏まで完熟させて食べる(だから「夏ミカン」)と書いてあるが、二月にもなればボトボトと実が落ち始めて、夏ミカンの木も人間も、駒場ではのんびりと初夏まで完熟させるというライフサイクルには縁がないように思う。ちなみに、大型の実に頭を直撃されると、かなり痛い。
 早春にはフキとツクシが採れる。どちらも雑草の扱いらしく、ぼんやりしていると知らない間にブォーッと草刈機で刈られてしまう。特に私はツクシの地味な味が好きでずっとグランド近辺を探ってきたが、実に理解できない事実を発見した。ツクシは地中から頭を出す時期と場所が予測しにくいので、前年に背の高いスギナ(ツクシはスギナの子)をマークして翌年の春にその近辺を見張るのだが、駒場ではツクシを経ることなく地中からいきなりスギナが芽を出す。私はそれでは食べるところがないではないかと思ったが、駒場関係者のご子息(当時小学生)が、それではツクシはいつ胞子を撒くんだと言ったそうで、心に残る名言だった。なるほど。
 春から夏にかけての梅林の梅はあまりによく知られているが、そのかげで、草イチゴ、小梅、スモモが自己主張することなく美味しくなる(その順序)。しかし、夏の圧巻はなんと言ってもビワだ。先生に連れられた駒場保育所の小さい駒場関係者たちが無心に拾っている姿を見ると、夏の盛りも近いことを知る。中でも一号館の脇の巨木は、実が色づけば鳥はよく知っているらしいのに、余りの背の高さに人の目には入らない。小ぶりで実の大半は皮と種だが、普通に売っているものより甘い。
 私がキャンパスで美味しいものを拾っていると、それを不思議そうに横目で見ながら通り過ぎる学生たち(たまには嬉しそうに加わる人もいる)も駒場でいつも変わらない風景のはずだった。それが全く想定外の出来事で、二年前に突然学生の姿が駒場から消えた。私は去年の夏、18号館の裏からグランドに向かう道がなくなっているのを見て本当に驚いた。学生に踏み固められることがなくなって、小道のあったはずの場所は雑草に覆われ、毎年争うように摘まれていた草イチゴが一面に実を揺らしていた。駒場の変わらない風景には元気な学生の姿がなければならない。私は見届けることなく駒場を去るが、一日も早く本来の姿が戻ることを心から祈っている。

(言語情報科学/英語)

第633号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報