HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報633号(2022年1月 5日)

教養学部報

第633号 外部公開

<本の棚> 小松美彦・市野川容孝・堀江宗正 編著『〈反延命〉主義の時代 ―安楽死・透析中止・トリアージ』

廣野喜幸

 冒頭から私事で恐縮だが、父はヘビー・スモーカーで、「タバコほど健康にいいものはない」が口癖だった。案の定、肺がんで二〇一四年に亡くなったが、医師から禁煙を勧められたとき、「禁煙したら、どのくらい長生きできるか」と問うた。「二年くらい」という答えに、「二十年長生きできるのなら話は別だが、好きなものを我慢して二年長生きしても仕方ない」と言って、死の床についた。医師もあえて禁煙を強要しなかった。
 死の迎え方には二通りある。一つは、たとえば、快活だった私という生き方(=ビオス)を命が続くこと(=ゾーエー)よりも重視し、快活でなくなった私という、当人にとって容認できないような不満足なビオスになったとき、ゾーエーを断念するビオス重視型。もう一つは、どのようなビオスになったとしても私は私であり、最後までゾーエーを追求するゾーエー重視型。(この言い方は、本書第1章の表現を借り、評者なりの使い方に改めたものになる。)
 評者が生命倫理を学び始めた一九八〇年代は、医師のパターナリズムが支配的であり、かつそのパターナリズムは基本的にゾーエー重視的であったため、次のようなケースがよく見受けられた。死期の迫る芸術家がいて、当人は作品の完成を望んだが、その行為は死期を早めるとして、医師は治療に専念することを強制した。そして、芸術家は無念のうちに亡くなる。当時、このような医師集団の専門家支配に抗して、死期のあり方を自分で決める自己決定権が認められていいのではないかとする声が大きくなりつつあり、私もそうした論調の文章をものした覚えがある。
 父の事例は、一世代経ち、医師によるゾーエー重視的パターナリズム優位から、患者の意思が尊重される時代に移行したことを意味するのだろう。だから、かつての主張が成就したことを私は喜ぶべきなのだろう......いや、それは素朴すぎると本書は警告する。一見すると、現状は患者の意思が尊重されるようになった好ましい事態のように見えるかもしれない。だが、それは〈反延命〉主義とでも呼ぶべき現象の一側面にすぎない。総体としての〈反延命〉主義の進行は、非常に危うい――こう的確に指摘してみせたのが本書である。本書は、研究者や医師・政治家・作家・元看護師・当事者等、総勢十一名からなる多様な寄稿者が〈反延命〉主義の実態とその問題性を、九つの章および鼎談によって多角的に浮かびあがらせる構成になっている。
 かつて評者が主張したのは、医師集団がゾーエー重視に固執せず、どちらを選ぶか、本人の意思決定に任せて良いのではないかという提言であった。だが、現状で声高に叫ばれているのは、当人による死の自己決定を越え、ビオス重視の死こそ、人として尊厳のある死だと言い募る主張である。しかも、ビオス重視の死をことさらに美化する欺瞞をおかしつつ(第1章参照)。評者などはゾーエー重視だって尊厳のある死だろうと思うのだが、ビオス重視・ゾーエー重視をともに尊厳のある二つの死に方と認めて、個々人が信条等に照らしてどちらかを選び取るといった構えではなく、ビオス派は尊厳の独占支配を目論む。これが社会を支配する「空気」となってしまうと、たとえ当人が受け入れていたとしても、たとえ死期が迫っていない状況だとしても、ある者の目に尊厳なき状態と映じた人々は、早く死ぬのが当人のためでもあり、社会のためでもあるとする他者決定がなされ、そして、実際に殺されていく。かくして、植松聖被告は津久井やまゆり園で入所者ら四十五人を刃物で刺し、うち十九人に死をもたらしたのだし(鼎談参照)、ナチスはT4作戦で障害をもつことは尊厳なき状態だとして、十五〜二十万人を殺害したのである(第8章・鼎談参照)。
 本書の多角的検討が浮き彫りにしたように、心地よく響く「死の自己決定」という考え方は、「死の他者決定」(ある状況を尊厳がないと他者が決めつけ、そして実際他者がそれを解消――殺害――する)と軒を接しており、前者が後者を用意するのだとしたら、確かにかなり危険な思想だと言えるだろう。本稿で触れ得なかった論点を多々含む本書を多くの方々が紐解き、〈反延命〉主義という問題圏を真摯に受け止めて下さることを切に願う。

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(現代書館、二〇二一年)
提供 現代書館

(相関基礎科学/哲学・科学史)



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