HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報633号(2022年1月 5日)

教養学部報

第633号 外部公開

<駒場をあとに> 感謝と期待

村田 滋

image632_03_1.jpg 私は研究・教育に携わるようになって四十年余り、その一つの終わりを、東京大学教養学部の化学の教員として迎えられることをとても嬉しく思っている。駒場を去るにあたり、まず何よりも、ここに至るまでに私を支えて下さったすべての皆さんに、心から「ありがとうございました」と言いたい。
 私が駒場に赴任した一九九六年四月は、ちょうど駒場寮に廃寮宣言が出されたときであり、キャンパスは騒然としていた。化学部会の先生方が開いて下さった私の歓迎会のさなかに、学生が騒いでいると教員に動員がかかり、歓迎会は直ちにお開きになってしまった。それから終結まで五~六年続く廃寮問題では、多くの先生方が研究・教育の時間を犠牲にして、この問題に真剣に取り組む姿を目の当たりにした。この赴任直後の経験は、大学は研究・教育を行う場であるが、そのための環境を整えることもまた教員の重要な仕事であることを認識する機会となった。
 駒場では若い教員にも研究室を主宰し、大学院生の研究を指導する機会が与えられる。私も駒場に来て、それまで暖めていた「光合成の人工的模倣」という新しい研究に着手することができた。前任地の分子科学研究所と三重大学工学部では、物質に光を照射することによって起こる反応の道筋を調べる研究に携わっていたが、その過程で出会った事象と、学生の頃に興味をもっていた「生体模倣化学」(生物の機能を化学的に模倣し、その機能を本質的に理解する化学)に基づくテーマである。測定装置も十分ではなかったが、興味をもってくれた学生諸君と得られた結果について議論をしながら、手探りで進めていく過程はとても楽しかった。論文が量産できる研究ではないため、すぐに成果が求められる世の中では研究費の獲得にも苦労したが、多くの先輩の先生方に助けていただいた。また、駒場の生物部会には、植物の光合成の研究で優れた成果をあげている先生方が多くおられる。先生方に声をかけていただき、光合成に関する全学自由研究ゼミナールに加えていただいたり、二〇〇七年に出版された「光合成の科学」の一節を担当させていただいた。駒場に来なければ、けっしてこのような機会はなかっただろう。
 毎年新学期になると、キャンパスは学生であふれかえる。私は銀杏並木を歩きながら、行きかう学生たちがあたりをはばからず数学の議論をしたり、講義の批評をしているの聞くことが好きだった。彼らは何年かの後には、おそらく日本をあるいは世界を背負って立つであろう、未分化の若者たちである。彼らに知識を授ける機会があることは、大学で教育に携わる者としてこれに勝る喜びはない。私も一人でも多くの学生に化学に眼を向けてもらおうと、特に前期課程教育には力を注いだ。眼を輝かせて私の講義に聞き入ってくれた学生の姿を、私はけっして忘れない。駒場の教壇に立って二十六年、情熱は赴任した頃と変わらないものの、年齢が上がるとともに疲労を感じるようになり、また定番のジョークも学生に受けなくなり、授業アンケートの自由記載欄には「教員の滑舌が悪い」との評価が増えてきた。定年退職という制度は、合理的なものであると思う。
 還暦を過ぎて、駒場での生活もこのまま静かに終えることができるかなと思い始めた頃、図らずも専攻や研究科・学部の運営にかかわることになった。遅ればせながら、駒場の教員・学生が安心して研究や勉学に励むことができる環境は、いかに多くの先生方や職員の皆さんの献身に支えられたものであるか、また東京大学という巨大な組織において、駒場がいかに重要な役割を担っているかを身をもって知る機会となった。本当に微力であったが、お世話になった駒場に少しの恩返しができたとすればとても嬉しい。
 私が駒場に愛着を感じる理由の一つに、キャンパスの自然の豊かさと、それを大切にしようとする人々の存在がある。原稿を書いている今は、ちょうど駒場の木々が色づき始める頃である。駒場祭の頃には銀杏並木は美しい黄色に染まる。年が明けると梅がほころび、キャンパスが新入生を迎える頃には桜が咲き、夏学期の終わりには15・16号館前に私の大好きな彼岸花が姿を見せる。これからも、変わることなく駒場に季節は巡るのだろう。キャンパスには私が赴任した頃にはなかった建物がいくつか建てられ、それらは旧制一高時代の重厚な建物と美しい対比を見せている。また、私が赴任した頃にはなかった研究組織や教育プログラムもいくつか設置され、研究・教育環境もずっと良くなった。しかしこれからは建物も制度も、さらに既存のものとの調和を図りながら、新しい価値を創造していくことが必要となるのだろう。現状の維持は後退と見なされ、常に走り続けることを求められる世の中では、難しい選択を迫られるかもしれない。それでも駒場の人々は皆で知恵を出し合い、大切なものは守りながら、新しい駒場を創っていくのだろう。そんな駒場の姿を見ることを楽しみにしている。

(相関基礎科学/化学)

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