HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報633号(2022年1月 5日)

教養学部報

第633号 外部公開

口、手、足の起源 複雑な系の変形ダイナミクス

澤井 哲

 といっても、人間や動物のものではない。アメーバ細胞のそれである。いわゆる「仮足」とよばれる構造は、幅の広いものから狭いものまで、細胞膜の伸張にともなって形成され、数分で退縮するものが多い。似た変形は、膜をカップ状に変形させて異物や液体を取り込む食作用や飲作用の際にもみられる。細胞にとっての「口」である。これらの自由自在で柔軟な手、足と口の形成は、細胞の探索的運動や、目的の場所への移動、栄養のとりこみや、異物の除去に欠かせない。ヒトを含め動物細胞にも共通しており、免疫細胞は組織中を同様の運動形式で這い回り、異物を取り込む。誤解を恐れず言えば、私達の一部はアメーバである。
 アクチンは、私達の筋肉でおなじみのタンパク質だが、細胞運動にも欠かせない。ことの発端は、一九六六年に大沢文夫らのグループが真性粘菌からアクチンを単離したことに遡る。その後、その調節に関わる生化学反応、分子機構が明らかになるなか、一九九九年にミカエル・ヴィッカーが、細胞の固定染色サンプルでみられるアクチンの像から、アクチンフィラメントの粗密波が、空間的に伝播していることを提唱した。波ならば、細胞が動く方向を変化させるときに形成する仮足の一過性をよく説明する。その後、蛍光タンパク質を用いた生細胞測定が容易になったことで、波の存在が確認され、約九年前の当時大学院生だった谷口大相らと、このアクチン波が「興奮性」の位相ダイナミクスに従っていることを明らかにし、教養学部報でも紹介した。興奮性とは、正のフィードバック制御によって微弱な信号が一過的に増幅される現象で、この場合、膜上のリン脂質の一種を増やす酵素とその上流の低分子量GTPアーゼの活性調節がその起源にあり、これによってアクチンの樹状のフィラメントの形成と解体が特徴的な時間と空間周期にしたがって展開する。
 一方、細胞遊走の一方向的な運動には、細胞膜が伸張する側とそれが収縮する側が対となる位置で保たれる性質、細胞の分極も重要である。細胞の前側ではアクチンは重合によって膜を伸長させる樹状構造をとり、後ろ側はミオシンで架橋された収縮性のフィラメントを構成する。この中間の段階はなく、排他的で「双安定」な状態と考えられる。双安定な系では、なにかの拍子に状態が一箇所で遷移すると、それが伝播し、系全体が同じ状態へと遷移する。しかしながら、生化学反応で注目される因子の変動は、リン酸基の修飾の有無のように、その総量が変わらない場合が多い。そうした系では、リー・エーデルシュタインケシェットらの理論によると、波の伝播が枯渇効果によって途中で停止する、波ピニングという現象が生じる。これによって、分極した状態が維持され、細胞は方向性を維持できると考えられている。
 細胞膜の変形は、アクチンのフィラメントが重合による伸張、ミオシンによるアクチンの架橋が変化することで生じる収縮からなっている。こうした複雑でマクロな系の動態の理解には、それに適した現象論的模型が有用である。実際の細胞でみられる複雑な変形の特徴は、そのような「興奮性」と「双安定」のダイナミクスからどの程度捉えることができるのか、当時大学院生だった井元大輔、本田玄と、生物普遍性研究機構助教だった斉藤稔らと、実験測定と数理モデル解析の両面から約七年にわたって取り組んだそれぞれの内容について、昨年三件のプレスリリースとともに発表した。これらについて簡単に紹介する。
 まず「口」の話から。細胞の口は細胞膜がカップ状に変形し、それが閉じながら内側にとりこまれる。食作用では、取り込む粒子の表面に細胞膜が接着しながら、表面にそって形成されると考えられているが、それでは飲作用のように空にむかってカップを作ることができない。飲作用の前兆として、細胞膜上にホスファチジルイノシトールリン酸と活性化型低分子量GTPが集積するパッチが表れる。その縁にはアクチンの樹状フィラメントの形成に必須のArp2/3の活性化を引き起こす因子が局在化する。この反応を模式化する反応拡散系に、膜伸張を表現する界面の方程式をカップルさせる系を考える。波ピニングが生じると、パッチがあるサイズを保とうとすることと、その縁が外側に伸張しようとすることが組み合わさり、膜が内側にやや逸れた方向に伸びる。これだけで自己充足的にカップ構造が形成されることが明らかになった。これが興奮性に移行すると、カップの分裂をひきおこすなど実際に観察される複雑な動態もこれで理解できる。さらにこのパッチパターンの形成は、接触した物体の凸構造によって促進され、伝播が方向づけられ、さらに遊走の方向性を決めることが、細胞性粘菌の実験から明らかになった。口が細胞の底面側でできると、それを閉じることができず、形成されたカップは手でなにかをつかむような状態でロックされるのである。この動態も、上の模型に基質を加えた数値計算からよく理解できる。
 口は手にもなるという当初予想しなかった結果であったが、遊走には足も重要である。ただ、仮足はむしろ腕のようなもので、地面を踏ん張るのは細胞の中腹から後ろ側で、細胞膜皮層にあるミオシンとそれに架橋されたアクチンが作る力を接着を介して足場へ伝えやすい。後ろ側の構造が増えると、前側を特徴づける樹状のフィラメント形成に抑制的に働き、これが細胞分極を生み出す双安定性に関わっていると考えられる。これに興奮性のダイナミクスが連動すると、膜を伸張する前側の状態の取り合いになる。この二つの機構が組み合わされた数理モデルが、実際の複雑な細胞形状のダイナミクスを、きわめてよく捉えることが、機械学習によるデータ駆動的な特徴量抽出から示された。このような実データと模型との体系的な比較はこれまでなく、今回新たに提案した模型の有効性を支持している。
 形と機能のつながりは、分子構造と化学反応、結晶構造と物性など、自然科学の基本にある。しかし細胞変形のような複雑な系となると、第一原理に基づいた記述は難しい。それでも試行錯誤を重ね、ほとんど表現する術のなかった十年前と比べるとだいぶ進展した。こうした取り組みが、細胞の動的性質の一般性を読み解くことにつながればと願っている。

(相関基礎科学/物理)

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