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教養学部報

第634号 外部公開

<駒場をあとに> DESK創設の頃

足立信彦

image634_02_1.jpg 私が東北大学から駒場に転任してきたのは一九九〇年、それから三十年余、漫然と過ごしてきたという忸怩たる思いがある。その私にも一度だけ大変な時期があり、記録の意味も込めて、書き留めておこうと思う。
 DESKすなわち東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センターは、当初はドイツ・ヨーロッパ研究室として二〇〇〇年一〇月に設立されたが、そのための準備作業には二年ほどを要した。ことの起こりは、教養学科(当時)ドイツの文化と社会(通称ドイツ科)の恩師でありドイツ語部会の同僚でもあった麻生建先生がドイツ学術交流会(DAAD)の当時の所長シュトゥッケンシュミット氏から、DAADの資金によってアジアにドイツ研究の拠点をいくつか作りたい、ついてはそのひとつを駒場で引き受けないか、という提案を受けたことにある。当時はドイツのアジアに対する関心も今ほど中国一辺倒ではなかった。
 麻生先生の専門は哲学、私は文学と共に人文系であったが、二人とも地域文化研究を標榜する教養学科ドイツ科の出身だったこともあり、日本のドイツ研究は人文系に偏りすぎていると感じていた。そこでDAADの提案を社会科学系の研究者を養成するチャンスだと考え、さらにヨーロッパが統合に向けてダイナミックに動いていた時期でもあり、ヨーロッパ研究を目指す広く開放された機関を作りたいと考えるようになった。私たちは早速計画書を作成しDAADおよび総合文化研究科と折衝を開始したのだが、そこでさまざまな困難に見舞われることになった。
 社会科学系を重視する方針はDAADに好意的に受け止められたものの、広くヨーロッパ研究を志向するという方針は歓迎されなかった。ドイツ語以外のヨーロッパ言語を学ぶ学生にも門戸を開き、ヨーロッパ諸国へ派遣するという計画にはけんもほろろだった。DAADの資金はドイツの諸政府機関から出ている。国民国家の克服とかヨーロッパ人意識の醸成とかいった高邁な議論とは別次元の現実を私たちは思い知ることになった。DESKの名称に含まれているヨーロッパはいわば夢の名残である。
 駒場内部における折衝はそれに輪をかけて厄介だった。
 第一に東京大学には外部資金導入の先例がなかった。当時の経理課長によれば、国立大学は日本政府の資金で運営されるもので、教員が自分の本の印税を受け取ることすら望ましくない、ましてドイツの資金など論外とのことだった。逆のことが奨励される今では想像もつかないが、まずどのような形ならDAADから東大へ資金を流せるか、その検討から始めなければならなかった。いったん導入が認められても使途についていちいち細かいチェックが入り講演料を支払うのすら苦労した。とはいえ、事務方が常に立ち塞がったわけではなく、研究交流課長は好意的でなにくれとなく力になってくれたし、くだんの経理課長も最後には研究室として予定された8号館の部屋があまりにボロボロなのを可哀想に思ったのか天井の張り替えに予算を認めてくれた。
 もっとも大きな失望を感じたのは他言語の同僚たちの反応である。私たちは企画書を持って英語、フランス語、スペイン語などの同僚の間を周り協力を要請したが、賛同は得られなかった。今となればかれらの不審の念はよく分かる。ドイツの資金でヨーロッパ研究センターを作るという構想は、現在のEUの中でのドイツ同様、経済力にものを言わせた高慢さに見えたことだろう。
 最後の困難はより人間的な性質のものだった。当時の研究科長・学部長は理科系で本当のところこの計画には関心が薄かったと思うが、それでも何度か会議を開いてくれた。しかし、打ち続く折衝の過程で露呈する複雑な人間関係に神経をすり減らし、本拠地ドイツ語部会に帰ればそこでも揉め事が絶えなかった。
 助教授(当時)だった私は常に日本語とドイツ語二種類の書類を作成して会議を駆けずり回っていたのだが、次第に疲労が蓄積していくのを感じていた。そしてついに心身の調子を崩し、ドイツ・ヨーロッパ研究室は麻生先生の退職後になんとか設立に漕ぎ着けたものの、実質的な運営を森井裕一先生にまる投げすることになった。
 森井先生にはいくら感謝してもし切れない。DESKが今でも存続しているのは森井先生、そして歴代の運営委員長とセンター長のおかげである。森井先生、臼井隆一郎先生、木畑洋一先生、石田勇治先生、川喜田敦子先生、ありがとうございます。
 結局、社会科学系の研究者の養成という目的は多少果たされたかもしれないが、ヨーロッパ地域研究はほとんど緒にもついていないのではないだろうか。地域文化研究のヨーロッパ関係諸コースは、三十年前と同様、国家別に分かれたままである。たしかに言語の壁は高く、それぞれの国が培って来た歴史は無視できない。だが、研究者たるもの、研究対象が課してくる文脈に囚われたままでいいのだろうか。いつかヨーロッパ研究というものが可能になることがあるのだろうか、それが駒場を去るにあたっての唯一の心残りである。

(地域文化研究/ドイツ語)

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