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第634号 外部公開

<送る言葉> 先駆者としての長年の労をねぎらって─ 楊凱栄先生を送る

小野秀樹

 楊凱栄先生と初めて親しくお話をしたのは駒場の研究室で、当時は二人部屋だった。楊先生は私の恩師と相部屋で、恩師から所用で呼び出された私は神戸から駒場を訪れ、その際に紹介していただいた。数年後、私は都立大に転任し東京で暮らし始めた。着任した年から駒場で非常勤をさせていただいた。さらにその十年後、縁の巡り合わせで私は駒場の教員となり、楊先生の同僚となった。最初にお目にかかってから、四半世紀のお付き合いになる。
 楊先生は、文革が終わったあと、改革開放政策のもと国費派遣留学生として一九七九年四月に来日され、大阪外国語大学の修士院生として現代中国語学と日中対照言語学の研究に従事された。当時、難波には映画館が立ち並んでいたが、紅顔の美青年であった楊先生は、日活ロマンポルノの看板の前を通る際には、「ああいうものは見てはいけない」と首を捻って反対側の路面を見ながら歩いたそうだ。その後、筑波大学大学院で研鑽を積まれ、一九八八年三月に使役表現の日中対照研究で文学博士の学位を取得された。中国人としては初の文学博士であり、《人民日報》にもそのことを報じる記事が掲載された。大学院を修了後、九州の大学に赴任されたが、数年後に駒場に転任された。爾来、楊先生は中日両言語を研究する日本在住の中国人研究者の先駆けとして、研究と教育に尽力してこられた。毎年意欲的に研究成果を発表されるばかりでなく、長年に亘って数多くの講演を行ない、学術雑誌の編集の中枢を担い、在日中国人研究者間の交流を牽引し、また後進の育成にも力を注いでこられた。
 ご自身が苦学生であったということもあり、楊先生は留学生の抱える寂しさや倹しさに対して、絶えず気を配っておられた。研究合宿を実施して交流や見聞を広げる場を設けるとともに、ご自宅でもお正月などにパーティーを開いて多くの留学生を招いた。「上海の男性は家庭的で料理が上手」という中国の定説に漏れず、楊先生は毎回見事な手料理で客をもてなされた。私は上海の家庭料理では精進の材料を多用するということを知った。また、次々と供される中国料理の締めくくりとして、いつも「おでん」が出された。ご自身の和食のお好みの品は「青背の魚の刺身」と「だし巻き卵」で、焼酎は受け付けず日本酒を嗜まれた。
 楊先生は日本中国語学会の理事を長く務められ、ご定年を控えた最後の二年間は副会長の任に就かれた。近しい者から見た楊先生は、気さくで陽気で、かつ童心を失わず、真っ直ぐな心意気をお持ちの人であり、周囲の多くの人から愛されてきた。私も先生の間近にいて、愉快な失敗談や楽しい話題とともに、中国語や中国事情に関しても多くの有益なお話を伺うことができ、また公私に亘って常に親身で優しい言葉をかけていただいた。ご退職に際し、寂しさとともに感謝の気持ちで一杯である。
 コロナ禍の状況にあって、楊先生は好きな旅行にも行けず、さぞかし気鬱な日々を過ごしてこられたことだろう。ご退職後、感染症が落ち着いたら、思う存分各地を巡って気分を晴らしていただきたい。長い間本当にお疲れ様でした。また「おでん」ご馳走してください。

(言語情報科学/中国語)

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