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第634号 外部公開

ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎博士の気候モデルとは

江守正多

 プリンストン大学上級研究員の真鍋淑郎博士が、クラウス・ハッセルマン博士、ジョルジョ・パリージ博士と共に、二〇二一年のノーベル物理学賞を受賞された。真鍋さんの受賞理由は、「気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」である。
 真鍋さんは一九五三年に東京大学理学部地球物理学科を卒業され、同大学院で博士号を取得後、一九五八年に米国に渡られた。以来、地球流体力学研究所(GFDL)等において、物理法則に基づくコンピュータシミュレーションによる地球の気候の再現、理解と予測の研究分野を開拓され、第一線でリードされてきた。
 今となってみれば、流体力学を基礎とする既知の物理法則を組み合わせて数値計算を行うことによって、地球の大気・海洋・陸域の気候状態や変動がシミュレートできることは、当然のことのように思える。しかし、それを世界で初めて実際にやってみせるということを想像してみて頂きたい。しかも、当時の限られた計算機能力を用いてである。それは極めて困難な大仕事であったと同時に、極めてわくわくする企てであったに違いない。
 流体力学の方程式を数値計算することによる「数値天気予報」は、米国では一九五五年に実用化されていたそうだ。しかしそれは、「今日」の大気のデータ(気圧や温度の分布)を初期条件として、時間発展を計算することにより、「明日」の大気の状態を予報することだ。この場合、現実的な初期条件からの短時間の摂動だけを解けばよいのであるから、大気中の赤外線の伝達など、ゆっくりと作用する過程を丁寧に解かなくても、概ねよい結果が得られる。真鍋さんが取り組んだのはこれではなく、地球の「気候」―長期間の気象の平均的描像―を、システムの平衡状態として、イチから再現することだった。
 一九六四年の論文で、真鍋さんは大気中の水蒸気、二酸化炭素、オゾンが赤外線を吸収・射出する過程を(オゾンについては太陽放射の吸収も)計算して、気温の鉛直構造の「放射平衡」を導き、これに大気の鉛直対流の効果を加えることにより「放射対流平衡」を求めている。この際、鉛直一様にマイナス一〇〇℃の(非現実的に寒い)初期条件から始めても、プラス一〇〇℃の(非現実的に暑い)初期条件から始めても、時間発展の末に、同じ現実的な平衡状態に行きつくことを確かめている。このように真鍋さんは、地球という惑星の持つ諸条件と物理法則のみから決定される、初期条件によらない平衡状態として、気候を再現し、理解することに拘られた。(余談だが、教養学部基礎科学科第二の第一期生であり、シミュレーション天文学の第一人者である牧野淳一郎神戸大学教授の卒業論文が、真鍋さんに倣った地球大気の放射対流平衡の研究であったことはあまり知られていない)
 この放射対流平衡モデルを用いて、一九六七年の論文では、大気中の相対湿度不変の仮定(その後の研究で、この仮定は現実のよい近似であることがわかっている)の下で、太陽放射の強さ、水蒸気量、オゾンの量、雲の量などを様々に変化させる実験を行い、平衡状態の応答を調べた。これは、システムの理解を深めるための、一連の感度実験もしくは「演習問題」であった。そしてこの中で、二酸化炭素の濃度を二倍と半分にした実験も行った。これが結果的に、世界で初めての本格的な放射計算に基づく地球温暖化の予測実験となったのだ。
 並行して、真鍋さんは、この放射計算を三次元の大気モデルに組み込み、さらに雲・降水過程や陸地表面の水文過程を含む水循環を組み込むなどして、「大気大循環モデル」を完成させた。このモデルでもやはり、どんな初期値から計算を始めても、現実の気候とかなりよく似た気温、降水量、風、気圧などの平均的な分布が平衡状態として再現された。さらに真鍋さんは、このモデルに「海洋大循環モデル」を結合し、「大気海洋結合大循環モデル」を完成させた。これが、国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の評価で気候変動の将来予測等に用いられる気候モデルの原形になったことはいうまでもない。
 現在では、世界中で数十の研究グループが、競うようにして気候モデルの開発を行っている。最新の気候モデルと比較すれば、真鍋さんのモデルはずいぶんとシンプルだ。たとえば、対流性の降水は、湿潤不安定な大気成層を混合する過程で表現されるが、最新のモデルでは、そこは複雑な雲モデルに置き換わっている。同様に、真鍋さんは陸面水文過程を一律に一五cmの深さのバケツ(バケツの水位が高いほど蒸発の効率が上がり、溢れると流出する)で表現したが、最新のモデルでは複雑な植生モデルや河川モデルが用いられる。複雑な気候モデルが登場しはじめて以降も、真鍋さんはシンプルなモデルを使い続けながら、気候システムの本質的な問題を楽しそうに解いていった。
 気候システムの諸過程をシンプルに表現しても、諸過程の間の相互作用は十分に複雑だ。その複雑な相互作用を深く理解するために、モデルはシンプルな方がよいという真鍋さんの信条は、現在においても示唆に富む。真鍋さんのシンプルなモデルは、諸過程の本質を大胆に見抜くことによって成立している。そして、真鍋さんのモデルが気候システムの本質を見事に捉えていたことは、そのモデルによって一九八九年に行われた地球温暖化の予測実験が、その後三〇年間に実際に起きた地球の気温上昇パターンと概ねよく一致していることによって、事後的に裏打ちされたといえるだろう。
 真鍋さんの気候モデル研究は、現実を詳細に再現したり予測したりすることよりも、気候システムの成り立ちや変動の理解を目指したものだ。そのことが結果的に、気候モデルによる気候変動の将来予測の研究にも信頼性をもたらしている。真鍋さんが開拓された、科学的にも社会的にも極めて重要なこの研究分野に自分自身も携われたことを、心から誇りに思う。

(広域システム科学)

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