HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報635号(2022年4月 1日)

教養学部報

第635号 外部公開

差異と類似のはざま あるいはマダガスカルで骨折するということ

教養学部長 森山 工

image635_1_02.jpg マダガスカルというところをご存知でしょうか。
 アフリカ大陸の東南の沖合に位置する大きな島です。
 わたしはこのマダガスカルのとある農村部で、一九八八年から文化人類学的なフィールドワークに従事してきました。
 文化人類学といえば、異文化のただなかに飛び込み、現地の人々と生活をともにしながら、その異文化を理解しようとする学問です。異文化すなわち他者を理解するということ。これは他者の「他者性」と対峙するということを意味するように思われます。自分とは異質な「他者性」と対峙するということを。
 そのような「他者性」に向きあう経験は、フィールドワークのさまざまな機会にありました。その一例を紹介しましょう。
 調査地域の村々をスクーターで移動している最中でした。街道沿いのある村にさしかかったとき、道に飛び出してきたガチョウをよけきれず、スクーターで轢いたはずみに転倒して、右足の大腿骨を骨折したのです。
 街道沿いの村での転倒でしたから、すぐに村人たちが駆け寄ってくれました。茫然自失としたわたしの脳裡に浮かんだのは、ともかく病院がある町までたどりつかなくては、ということです。
 ところが、集まった村人たちはこぞって町にはゆくな、病院にはゆくなという。自分たちがよく知る呪医のもとへゆこう、と。
 自分で歩くことができない今、村人たちに身を預けることしかできず、結局わたしはその呪医のもとに連れてゆかれるままとなったのでした。呪医はといえば、神や祖先や聖なる霊への唱えごととともに骨折した太腿を撫でさする。その儀式がひととおり終わると、わたしに告げたのです。一週間で歩けるようになる、と。
 一週間というこの宣告に、わたしは縛りつけられる思いでした。幸いにもさまざまな経緯があって、三日後にはチャーター便の小型飛行機で首都に搬送されて手術を受けました。その後、日本に一時帰国してリハビリを経たのち、調査を継続すべくマダガスカルへと戻ったのでした。
 町の病院を忌避し、呪医に頼ることを主張した村人たち。彼らの態度にわたしが見たのは、自分たちに馴染みの生活形式に対して彼らがもつ「誠実さ」です。けれどもその「誠実さ」は、わたしの想定を超えたところにありました。呪医に診てもらうというのは、その場のわたしには思いつくべくもなかったのですから。逆にいえば、それがわたしの生活形式のある限界でありました。そこでわたしが逢着した抵抗感は、紛れもなく「他者性」と出会う抵抗感にほかなりませんでした。
 けれども、現地の人々との関係がつねにこのような「他者性」の抵抗感に満ちていたわけではないのです。
 日本でのリハビリを終えてマダガスカルに戻り、わたしが転倒したこの村を再訪して挨拶をして回ったときのことです。村人たちは快癒したわたしを喜んで迎えてくれました。そうか、結局は町の医者に行ったのか。それもいい。でも、あの呪医だって能力は確かだよ。
 軽口をたたきあい、世間話に興ずるとき、そこにも何らかの抵抗感があるとすれば、それはおよそ関係を取り結ぶということに不可避的につきまとうある種の手応えでしかないかのようなのです。同じ人たちと話を交わしているはずなのに、彼らの生活形式という繭玉のなかにわたしを閉じ込めるかのような、静謐な、しかし厳然としたあの「他者性」の抵抗感など、微塵も感じられないのでした。
 このように、同じ人物であっても、それが容赦ない「他者性」とともに立ちあらわれることもあれば、わたしと地続きにやりとりができる類似性を呈することもあるのでした。
 これが示唆しているのは、それが異文化であるという理由で、そこに生活する人々を一元的に他者と規定することの危うさです。一元的に異質なわけでなく、一元的に同質なわけでもない他者。いくばくかの差異といくばくかの類似を併せもった他者。いかなる関係であれ、関係というものを設定することができるとすれば、それはこのような存在者とのあいだにではないのでしょうか。
 さて、教養学部長が新入生のみなさんに贈ることばとして、本稿はかなり異例な内容を示しています。教養学部の沿革にもリベラルアーツの理念にも言及していないからです。
 しかし、わたしは教養学部長であると同時に文化人類学者ですから、文化人類学に携わるものとして教養学部への新入生のみなさんに訴えたい。差異も類似も部分的であるということ、これです。絶対的な差異=異質性も、絶対的な類似=同質性も、すべからく「関係」を取り結ぶということにとっては不可能事です。絶対的に異質なものとは、そもそもコミュニケーションをとることができないでしょうから。絶対的に同質なものとは、そもそもコミュニケーションをとる必要がないでしょうから。
 そういう観点で見たとき、教養学部はみなさんに対していくばくかの差異と、いくばくかの類似を突きつけるはずです。教養学部はみなさんに多様な学修分野を提示し、学修を求めます。みなさんにとってそれは、当初の自分の関心と比したとき、いくばくかの差異と、いくばくかの類似をもった関心領域との出会いとなるはずです。だからこそ、みなさんとそれらの学修分野とのあいだには、何らかの「関係」が設定されることになるのです。その関係の豊かな可能性を積極的に開拓してください。
 みなさんの一人ひとりを中心にして、さまざまな領域にアンテナを張りめぐらせましょう。そのアンテナこそが、みなさんと当該領域との関係をあらわしています。太くて長いアンテナもあれば、細くて短いアンテナもあるでしょう。けれども、みなさんの一人ひとりを中心として、それらのアンテナの先がいくつもの角をもった多角形を描くということ。これがみなさんに求めたいことです。小ぎれいな三角形よりも、いびつな七角形のほうが将来性に富んでいるのです。
 というのも、教養学部で三角形にしかならなかった人は、将来的に三角形を超えることができないからです。もちろん、成長して大きくはなるでしょう。でも、三角形のままでしか大きくなりません。三角形が七角形に化けることはないのです。だからこそ今の時点で、さまざまな学修分野とのあいだに関係を設定しつつ(アンテナを張りつつ)、その関係がより多くの角を結び、より多角の形状をとるよう努めていただきたい。
 教養学部は、そのような場をみなさんに提供しているのです。

(総合文化研究科長/教養学部長)

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