HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報635号(2022年4月 1日)

教養学部報

第635号 外部公開

<本の棚> 山本芳久 著 『キリスト教の核心をよむ』

三村太郎

 日本人にとってなじみがありそうでまだまだその全貌がつかみ切れていないかもしれないキリスト教について、その核心を120ページほどのコンパクトな記述で提示してくれる本書は、一読すると分かるように、キリスト教のみに焦点を当てたものではなく、著者の山本さんの視座は思いのほか広い。その広さは、キリスト教をユダヤ教やイスラム教といった他の一神教と比較しつつ、旧約聖書と新約聖書との接続を総覧することで、キリスト教の特徴を明らかにする第1章で存分に発揮されている。このような比較宗教論の視点を踏まえて一神教としてのキリスト教という存在を捉えなければ、その核心は見えてこないのは言うまでもない。
 ではキリスト教の核心とは何なのだろうか。著者の山本さんは、一貫して、「旅人としての人に寄り添う神」という視点から、古代から現代に渡るさまざまな事例とともにキリスト教の核心を提示してくれる。
 最初の旅人はアブラハムである。三大一神教の原点ともいうべき彼こそが、主の促しに応じて旅立ったのだった。その際、彼は教えを説くことをせず、むしろ間違えながらも歩き続ける人として描かれていると山本さんは指摘する。人の原像としてこのようなアブラハムを提示するキリスト教の持つ神学は、神の働きかけに応じて旅する人々によるダイナミックなものだったという山本さんの観点は興味深い。
 ふりかえってみると、ユダヤ人は旅する民だった。その旅を支える基盤としてユダヤ教が成立し、その旅人のあるべき姿としてアブラハムを描いたともいえる。しかしながら、ユダヤ教はその成立理由ゆえ、ユダヤ人のためという枠組みを持っていた。他方、イエス・キリストは、その枠組みを取り払い、隣人すべてを包括する一神教としてキリスト教を展開しようとしたのではないか。実際、山本さんは、第2章で、新約聖書でのたとえ話を紹介することで、ユダヤ教徒たちとの対話などを通じて、イエスが隣人の定義を、まるでソクラテスかのごとき対話術を用いて変容させてゆくさまを見せてくれる。ユダヤ人対神だったユダヤ教から脱し、人対神としての一神教を目指したイエスは、たとえ話という、いかなる宗教や信念の持ち主だったとしても共感できる素材を提供することで、既存の宗教や信念を超越し、同じ人=隣人として旅しようと呼びかけたのではないか。
 第3章の主人公であるアウグスティヌスは、まさに旅することで神の存在に気づいた人物だった。『告白』を手掛かりに山本さんが鮮やかに描くように、旅の途上での哲学や聖書との出会い、友との出会いと別れを通じて、人に寄り添う神を発見したアウグスティヌスは、自叙伝のごとき『告白』で、彼の人生は神とともに歩むものだったと再発見してゆく。自らの諸活動は神の摂理に満ちており、ダイナミックな人生こそが神の摂理の存在証明となっている。旅をすることこそが、神の存在の実感に直結しているのである。
 以上の第2章と第3章で、キリスト教が立ち上がり、その神学の基盤が出来上がった頃の旅する人のためのキリスト教という存在を明らかにしてから、第4章で、山本さんは、現在のキリスト教まで射程に入れて議論を展開する。その際、現在の教皇フランシスコの回勅において、アッシジのフランシスコの自然との調和という視点が重視され、あらゆる被造物との普遍的な和解が宣言されているという山本さんの指摘は注目に値する。いわば、神対人だったキリスト教は、現在、その包括範囲を隣人から全被造物へと拡大させ、全被造物を結ぶ懸け橋を建造する旅を行っているといえるのではないか。このように、キリスト教は、旅を継続することで、ダイナミックに神学を変容させながら、自然界全体を包み込もうとしている。
 以上、コンパクトながら、キリスト教のまさに核心を伝えてくれる本書は、キリスト教とは何か、さらには世界にとって一神教とはどういう存在なのかを考えるきっかけを与えてくれる貴重な存在である。本書を手がかりに聖書やクルアーンを読むことを勧める。

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         提供 NHK出版

(相関基礎科学/哲学・科学史)

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