HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報636号(2022年5月 9日)

教養学部報

第636号 外部公開

〈後期課程案内〉文学部 過去と現在、そして未来を結ぶ人文学

人文社会系研究科 副研究科長 村本由紀子

https://www.l.u-tokyo.ac.jp/

 文学部の授業の多くは、本郷キャンパスの正門から安田講堂へ向かって伸びる銀杏並木の両脇に建つ左右対称の校舎、「法文1号館・2号館」で開講されています。いずれも一九三〇年代に建てられたレンガ造りの建物(登録有形文化財)で、一階部分には尖塔アーチが連なる三廊式の美しいアーケードがあります。その様式は、設計者の内田祥三氏にちなんで内田ゴシックと呼ばれています。この場所に備わる特有のアカデミックな空気は、洋の東西や過去と現在を跨ぐ広い視野から人間と社会の営みを探究しようとする、文学部の雰囲気そのものでもあります。
 現在の文学部には二十七の専修課程(研究室)があり、思想・哲学系、歴史・考古系、語学・文学系、行動・社会系という四つの大きな研究領域を網羅しています。学部生のみなさんは進学後、いずれかの専修課程に身を置くことになりますが、たとえば国語学と国文学、美学芸術学と美術史学、心理学と社会心理学など、多くの大学では区別されていない分野が別々の専修課程として存在しているほか、イスラム学、南欧語南欧文学、西洋古典学、現代文芸論など、国内では比較的珍しい専修課程もあり、思わず目移りしてしまうほどのラインナップが備わっています。
 いうまでもなく、こうした多彩な学問分野には、それぞれに異なる特徴と魅力があります。しかし、それらの紹介は別の機会に譲り、ここでは人文系の諸学問を学ぶことの意味について、ちょっと珍しい研究プロジェクトの事例を手掛かりにしながら考えてみたいと思います。
 今から十年余り前、京都の国際高等研究所を中心とする日本の研究者たちが宇宙航空研究開発機構(JAXA)と共同研究を行い、人文・社会科学の視点から、「人間と宇宙」をめぐる諸課題についていくつかの問題提起を行いました(※)。私自身も一時期、ワーキンググループに所属して議論に参加しました。このプロジェクトで掲げられたリサーチクエスチョンは大きく三点でした。第一に、「宇宙は人間の価値観をどのように変えるか」、すなわち、価値判断の基準系が地球の内部から外部へと移ることによって、私たちの世界観や宗教観はいかに変わるのかという問いです。関連して、宇宙環境下での芸術活動は新たな美を生み出しうるかという問いも扱われました。第二に、「人間は宇宙でいかにして共同生活を営むか」という問いです。個人レベルでの心身の適応の問題とは別に、新たな集団規範の生成と維持、平和的な集団間関係の構築、AIロボット等の非人間的存在との協調等々、達成すべき課題は数多く存在します。このことはさらに、「宇宙のガバナンスをどう構築するか」という第三の問いへと展開します。資源の所有権、宇宙旅行や宇宙ビジネスをめぐる制度設計の問題等々、宇宙開発の進展に伴って検討事項は増えていきます。
 上記はいずれも、宇宙という未知の環境を舞台にして人間がいかに「生存」するかではなく、いかに「生活」するかに関わる問いです。当時のJAXAでは日本初の有人宇宙施設「きぼう」が完成したばかりだったことに加えて、将来的な火星有人探査の可能性を探っていた時期でもあり、こうした研究テーマは決して夢物語ではありませんでした。これらの問いに対する答えを、従来の宇宙開発研究の中心だった自然科学の知見のみから得ることはできないでしょう。哲学、宗教学、芸術学、歴史学、文学、心理学、社会学等々、人間の社会的営みに係る諸現象を(法学、政治学、経済学等の社会科学とともに)探究してきた人文系諸学問の視点が必要とされるのです。
 とはいえ「宇宙でいかに生活するか」などという問いは、私たちの日常からかけ離れた極端なものとして映るかもしれません。しかし、ここでの「宇宙」を、深刻化する環境問題、未知の病原体の出現や大災害、国際社会における分断と対立の激化など、さまざまな未曽有の事態に直面する地球に置き換えたとしたら、どうでしょうか。これまでに経験したことのなかった困難な環境下でいかに生きるかという問いは、私たちが最優先で探究すべき、目の前にある課題です。あらゆる学問諸分野が文理の壁を越えてこれらの難題に立ち向かうことが求められている今、文学部の学問が担う役割もまた、決して小さくないはずです。
 見知らぬ環境に思いを馳せ、そこでいかにして生きるべきかを考えるとき、私たちはしばしば、「過去」の経験の中から重要な気づきを得ます。文学部での学びは、多かれ少なかれ、過去の社会に生きた人々との対話を含んでいます。先達が紡いだ思想・哲学、積み上げた歴史、生み出した文学・芸術作品等を直接の研究対象とする学問分野は言うに及ばず、現在の社会と人々との関係を考える分野においても、「今、ここ」を超える視点で現代社会の特質を相対化することが肝要です。そのようにして過去を知り、現在を理解する学びのその先に、まだ見ぬ未来をいかに生きるかを考える指針を見出しうるのではないでしょうか。多くの学部生のみなさんが、これを自らの問いとし、ともに取り組んでくれることを期待しています。

※ 初期の研究成果は、公益財団法人・国際高等研究所の報告書『宇宙問題への人文・社会科学からのアプローチ』(二〇〇九)として刊行されています。

(副研究科長/社会心理学)

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