HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報636号(2022年5月 9日)

教養学部報

第636号 外部公開

<本の棚> 小島憲道 著 『化学と地球と 現代社会 教養としての現代化学』

真船文隆

 私たちの研究分野(化学系)では、比喩として「分子の顔を見る」という言葉を使うことがある。分子の顔を見て、性質を大体理解できることはとても大事で、性質がわかれば過剰に怖れる必要はないし、それを材料として、新たな機能を生み出すこともできる。化学系の教員としては、学生に、「分子の顔を見て大体見当がつく」感覚を身につけてほしいと願っている。
 本学名誉教授の小島憲道先生の著書「化学と地球と現代社会 教養としての現代化学」は、いわゆる化学の教科書である。元素の誕生、放射線の化学、原子の構造、化学結合、分子軌道、配位結合、原子・分子集合体とその物性、生化学と、前期課程の理系の学生にとっても十分に読みごたえのある内容だ。ただ著者は、大学の文科生等、化学を専門としない学生を読者として想定している。そこには仕掛けがあって、化学の教科書として基礎的な部分を縦糸とし、地球・現代社会と物質に関わる部分を横糸として、全体としてこれらが巧妙に織りなされた構成になっているのだ。本学前期課程で文科生を対象とした講義「物質化学」を基礎としている。
 例えば第4章「化学結合と分子の構造」では、量子論に基づいて原子間の結合を詳しく説明した後に、炭素原子を中心として複数の原子が結合した有機化合物の説明が続く。有機化合物の構造と異性体(分子を構成する原子の種類と数が同じでも構造が異なるもの)の説明の中で、鏡像異性体(立体構造が異なり、鏡で映してみると同じ分子の形をしているが、回転などの操作を行っても互いに鏡に映った分子のかたちにすることができない異性体)とは何かが、詳細に述べられている。この詳細な説明に対応する横糸として、一九五〇年代に販売されたサリドマイドについて記述が続く。サリドマイドは、睡眠剤・精神安定剤として働くはずが、催奇性があり、妊婦が服用した場合に四肢の全部あるいは一部が短いなどの先天性障がい児が生まれた。実は、サリドマイドには鏡像異性体があり、R─体は催眠作用・鎮痛作用を有するが、S─体は催奇性を有することが分かった。その後、R─体からS─体への異性化反応、催奇性が誘発される機構なども明らかにされた。このように、微妙な構造の違いで、反応性や機能は全く異なるのが化学物質である。ここで、私は、微妙な構造の違いと述べた。本来、事象を正しく深く理解しようとすれば、微妙なという言葉でごまかしてはいけない、具体的にどう違うのかについての丁寧な説明が必要と著者は考えている。「トピックを表面的に追従していくことなく、現代化学の基礎に立って深く理解することができるよう心がけた(はじめに、より抜粋)」結果が、この本の構成になっている。
 「化学」という切り口で、これまでの歴史を振り返れば、人々は新たな事象に遭遇し、その中で鍵として働く物質を同定し、その機構を明らかにすることで問題を解決してきたと言える。解熱剤や鎮痛剤として作用するアセチルサリチル酸、抗生物質のペニシリン、イベルメクチン、梅毒の治療薬サルバルサン、ハンセン病の治療薬プロミン(第10章)は、人々の健康・安全・安心に貢献してきた。一方、イタイイタイ病におけるカドミウム、水俣病におけるメチル水銀、四日市ぜんそくにおける硫黄酸化物、ミルク中毒事件におけるヒ素は、明らかに生物とは相容れない物質であったが、これらの物質が同定されることで公害問題は解決された。成層圏のオゾンホールの発見は、フロンから生成する塩素原子によるオゾン分子の触媒的解離反応の解明と、フロンガスの規制につながった。地球温暖化の機構、再生可能エネルギーの開発にも、それぞれ化学物質が関与している(第11章)。
 化学を専門としない学生でも、何度となく聞いたことあるキーワードがあるだろう。「分子の顔を見て大体見当がつく」感覚に近づくために、化学の基礎に立って深く理解することの必要性には共感する。著者曰く「本書で学んだ知識が、各自の人生において、様々な問題を解決したり企画立案したりするときのバックグラウンドになることを願っています(あとがき)」。

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       提供 サイエンス社

(相関基礎科学/化学)




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