HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

駒場図書館に荻生徂徠の貴重資料が寄贈されました!(連載第二回・完) 荻生家資料の魅力

高山大毅

 このたび荻生徂徠(一六六六~一七二八)のご後裔である荻生茂樹氏・庄子妙子氏より、荻生家伝来の資料約一五〇点が駒場図書館に寄贈された。荻生徂徠は江戸時代を代表する思想家であり、今後、徂徠の自筆稿本を含む本資料の整理・公開によって江戸期の思想・文学に関する研究が大きく進展することは確実である。連載第一回の図書館長対談で既に寄贈の経緯については語られているので、第二回のこの記事では、寄贈資料の内から二点を取り上げ、本資料の魅力の一端を示せればと思う。
image637_1_01.jpg 最初に取り上げたいのは、『広象棋譜』の自筆本である。本書は、徂徠が案出した独自の将棋である「広象棋」のルールブックである。徂徠は様々な学芸に通じた人物であったが、今風にいうと「軍事マニア」的な側面があり、若い頃から戦国時代の伝承を年長者から聞くのを好み、晩年には兵学書の『鈐録』を執筆している。『広象棋譜』は、彼の兵学研究の副産物と見ることができる。「広象棋」の駒は、通常の将棋(本将棋)の駒とは異なっており、「歩兵」「馬兵」の他に「象」や「仏郎機」(フランキ、西洋由来の大砲)といった駒もある(写真に挙げたのは、「軍師」の駒の動きの図である)。ルールはなかなかに複雑であるが、偉大な徂徠先生考案のゲームということで、江戸時代には『広象棋譜愚解』という注釈まで作られている。
 本書の徂徠の序文によると、初学者に駒の名称などを通じて軍事用語を学ばせることがゲーム制作の目的であった。江戸時代の学者とゲームの関係というのはなかなか面白い問題で、本居宣長も「名勝地名箋式」という歌枕を憶えるためのカードゲームを考案している。「アクティブラーニング」や「ゲーミフィケーション」といった言葉のない江戸時代においても、ゲームを取り入れた学習法の試みは既に行われていたのである。またゲームデザインというのは、社会制度や政治制度の設計と相通じる面があるので、徂徠の秩序観を考える上でも本書は興味深い。
 続いては、『五言絶句百首解』『滄溟七絶三百首解』を紹介したい(両資料ともに徂徠の自筆)。徂徠は江戸時代の文学史を考える上でも、非常に重要な人物である。大前提として、近世日本の教養人の多くは漢文で物を書き、漢詩を詠んだことを述べておかなくてはならない。二百年以上の安定の中で蓄積された江戸時代の学知が、現代日本の人々にとって縁遠いものとなっている一因は、当時の著作がしばしば古典中国語(漢文)で書かれていることにある。徂徠は、日本の漢文学史上屈指の名文家であり、漢詩文に造詣の深かった夏目漱石も徂徠とその学派の文章を好んだ。徂徠は漢詩の領域においても後代に大きな影響を残している。日本の「古典」の教科書に載る漢詩は、『唐詩選』から採録されているものが多い。この『唐詩選』を日本で出版し、普及させたのは、徂徠とその弟子たちである。いまだに日本で教育を受けた人々の漢詩観は、徂徠たちに規定されているといえる。image637_1_02.jpg
 今回寄贈された『五言絶句百首解』『滄溟七絶三百首解』は、中国明代の詩に対する徂徠の注釈で、徂徠没後、『絶句解』『絶句解拾遺』という名で刊行された文献の稿本に当たる。『絶句解』『絶句解拾遺』は、今日顧みられることが稀な文献であるが、江戸中期においては、『唐詩選』とともに盛んに読まれた。今回、寄贈された資料には、写真を見れば分かるように、推敲の跡が生々しく残っており、注釈を施す際の徂徠の思考を辿ることができる。まさに江戸期の漢文学研究の第一級資料である。
 寄贈資料には徂徠の儒学研究に関わる重要文献も含まれているが、今回は儒学関連以外の資料をあえて二点取り上げた。徂徠は、儒学に限らず、兵学・文学・音楽・度量衡研究など、様々な学術領域に足跡を残した。彼の名前を知らない人々も無自覚のうちに直接・間接に彼の学問の影響を受けていることもあり、日本の学術の将来を考える際にも、徂徠は顧みるに値する存在である。徂徠の学問体系を反映した荻生家伝来の貴重資料が、駒場図書館に寄贈されたことの意義は非常に大きい。本資料の公共的価値を深くご理解なさり、本学への寄贈をお決め下さった荻生茂樹氏・庄子妙子氏に改めて御礼申し上げたい。

(地域文化研究/国文・漢文学)



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