HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

<本の棚> 伊達聖伸、アブデヌール・ビダール編『世俗の彼方のスピリチュアリティ フランスのムスリム哲学者との対話』

石井 剛

 本書はフランスのムスリム哲学者アブデヌール・ビダールが二〇一五年一月に公刊した『イスラーム世界への公開書簡』を中心に、編者の伊達聖伸の他、鵜飼哲、中田考、鶴岡賀雄、安藤礼二、渡辺優が分担執筆する。公刊の直接の背景には『シャルリ・エブド』紙本社に対するテロ事件があるが、鵜飼が振り返るように、同紙はイスラーム預言者の風刺画を繰り返し掲載し、フランス国内では十年ほど紛争が続いていた。国外でも、アルカーイダからイスラーム国に至るテロ活動が広がっていた。ビダールはこの「危機の時代」を乗り切るために、イスラームの教えに訴えながら、「宗教からの脱出」によって陥った近代の弱点を「世俗からの脱出」において克服しようとする。それは、「スピリチュアルな生の形態」をかつてとは異なる「前代未聞」のかたちへと変容させていく努力であるとビダールは言う。
 「危機の時代」とは、鶴岡によれば、近代的世俗化の結果生じた世界的な宗教の危機である。そうしてみると、イスラーム国の台頭に極まったテロリズムの連鎖は、世俗化と別の次元で生じたのではなく、その帰結ということになるだろう。だからこそビダールは、イスラームに内在する「悪」を見据えながら、なおもイスラームの内側から地球規模の新しい文明を希求する。そして、スピリチュアリティは新しい文明を支える人類の絆となるべきだという。本書がビダールと日本の研究者との対話であることによって、ビダールの願いは、わたしたちが埋め込まれている「世界」そのものに対する問いへと昇華する。
 だが、スピリチュアリティとは捉えがたい概念である。安藤は鈴木大拙が「霊性」と訳してユニークな議論を展開したことを論じるが、しかし、彼が別の本(末木文美士編『死者と霊性』、岩波新書、二〇二一年)でほのめかすように、東アジアにおける霊性を考える場合、死者の霊を完全に切り離すのは難しい。しかも死者一般ではなく祖霊であることが重要で、東アジアの近代的「脱宗教化」が直面した問題はこれであったように思われる。例えば日本においては、国家が祖霊を祭る構造(靖国神社を頂点とする)を確立することが近代国家化であった。同じ『死者と霊性』の中で中島岳志が死者をも含む民主主義として立憲民主主義を再定義しようとしていることは、日本国憲法で天皇が最初に定義されている構造に照らしたとき、明治国家の遺産を受け継ぐ日本の立憲体制の特徴を図らずも顕わにする。しかも、それは「近代の超克」論と結びついた大東亜共栄圏の時代を経て受け継がれているのである。スピリチュアリティによる「世俗からの脱出」を目指す道のりは、日本近代史の中に忌まわしい前例が認められるのみならず、今日においてもなお、いや、同じ轍を踏まないためにこそ険しい。
 こうした視座の下で、イスラームはいかなる可能性をもちうるだろうか。中国に目を転じてみると、祖霊祭祀は社会主義革命が挫折した後の改革開放期には儒教的な民間習俗として復興し、今日では中華民族のアイデンティティの基盤として国家が包摂する方向に進んでいる。だが、巨大なムスリム人口を抱える中国でその目論見は容易に実現されないだろう。中国の歴史の中で、ムスリムは領域横断的な物流と知的交流に貢献し、中華文明を豊かで質の高いものにしてきた。民族間のきしみは、その一方を排除するまでに至ることはないのだ。その原因は、大陸ゆえの移動の可能性と密接に関係しているだろう。しかし、近代的主権の浸透は、ユーラシア大陸文明の特質である領域を超えた流動性を脅かす。それは中華世界の変質を意味する。伊達は大川周明がイスラームへの関心を示した例に言及するが、それはたぶん満洲を知る彼ならではのユーラシアの発見であったのだろう。だが、大川の理想は挫折すべくして挫折した。
 日本からイスラームへのまなざしは幾重もの襞に遮られたもうひとつのオリエンタリズムだと言えるのかもしれない。ビダールと日本のわたしたちのまなざしは、ユーラシア大陸の内奥において交錯する。そこへ続く道の途上では、わたしたちはまだまだ幾重もの出会いと摩擦を繰り返しながら、自らを問わなければならない。本書がその貴重な一歩であることを悦びたい。

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提供 東京大学出版会

(地域文化研究/中国語)




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