HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

神は偶然に宿る、悪魔は細部に宿る

堀田知佐

 物質中の電子は波を形づくる。少しかみ砕いていうと電子の量子状態は波動関数で表され、その振幅の二乗の形が電子の空間分布を与える。物質は原子の規則的な結晶構造をもつのでそこにある電子が不規則に分布する筈がない。だから電子状態は電子が結晶全体を公平に動き回ることを反映してサイン・コサインの形で規則的に系の端から端まで届く波、通称「平面波」になるのが普通だ。波長が短い紫外線が、 赤外線より高いエネルギーをもつことなどからも連想されるように、電子状態のエネルギーは波数(波長の逆数)の関数として変化する、その様を表すのがエネルギーバンドで、バンドの各部分がそれぞれ異なった波の量子状態をあらわす。バンドの形は原子の組み合わせや結晶格子の形に応じて様々だが、波数に応じて曲がりくねり、その様は「スパゲッティ」といわれたりする。ところが、何らかの特殊事情でバンドが平坦になることがある。これをフラットバンドという。フラットバンドに属する状態はどれもエネルギーが同じなので波数は状態の特徴づけに意味を失う、これは言い方を変えれば状態が運動エネルギーを失うことと同じである。なぜこのようなことが起こるかというと、平面波が「破壊的干渉」によって空間の一部に閉じ込められた波束となるからである。〝パケット〟でおなじみの波束は、似た波数の平面波同士が干渉してできるものといえば想像できるだろうか。
 このようなフラットバンドができる基本の仕組みや性質がミールケと田崎らによって研究されたのは遥か昔、一九九一年頃である。今回、我々が新たに見つけたのは、重い原子~例えばタングステン~で見られるスピン・軌道相互作用という効果によって電子がくるくる回転しながら物質中を動き回っても、フラットバンドが出る機構があるというやや目から鱗の事実である。というのがスピンの異なる状態の間では干渉効果は起こりえないわけで、電子が回転して明後日の方向を向くとバンドが激しく曲がりくねってぐちゃぐちゃになるだけだろう、というのが常識的な予想だからだ。しかし電子が飛び移る際のスピンの回転角度をうまく制御すると破壊的干渉がおこせることが簡単な線形代数で証明できた。その起源であるスピン軌道相互作用が実際の物質のCsW2O7で強いことも、くどい計算によって示すことができた。つまるところこれは理論物理の空論や数学の演習問題ではなく、物質で起こるリアルである。
 フラットバンドが見つかれば何の役に立つのか? 十年スケールでは全く役になどたたない。ただ知的に新しいことを見つけたこと、それが別の新たな物理現象をもたらす可能性があること(実験を待たねばわからない)がそこにあるだけである。このような知の集積が物性物理という、物質の量子状態を理解する大きな学問体系をなしており、その基礎的で網羅的な理解がどこかで工学を始めとする多くの分野に何らかの影響を及ぼしている。
 この話は私のグループの中井さんが統合自然学科の卒業研究でCsW2O7のモデル理論でたまたまフラットバンドを発見したことに始まる。だがこれを偶然と片付けるわけにはいかない。一般に目の前に顕れた偶然を必然と思うかどうかが研究の明暗を分けるからである。実際、よくよく調べると過去の論文に似たようなフラットバンドが報告されていたのに著者らはそこを掘らずに見過ごしていたのである。フラットバンドを見たときから、絶対に理論が背後にあるという確信のもと、一カ月余の研究耐久レースが始まった。「明日からこれを証明しようと思う、一緒に考えてみる?」という問いかけに 幸か不幸かうっかり二つ返事ではいと答えた中井さんとその後、毎日毎日、図と式にまみれたipad交換日記と議論が始まる。主要なところは数日で片がつくが、細部まで詰めるのにはいろいろな山があった。昭和風にいうとおそらく学生の立場からは千本ノックされているような感覚だろうが、私たちはこの傍から見ると耐えられないくらいしんどいかもしれない、堪えられないくらい面白いひとときを最高に楽しんだ。物性物理学では、大事な現象は偶然に「実験」で発見されるものと相場が決まっていて、その辺の秀才が予想できる程度のものは実はたいして面白くない、教科書や論文をひたすら勉強すれば研究になるというものでもない、そんな計算ゼロのコンセプトを地で行く研究ができるのは学生あってこそ。自分だけでやっていては視野狭窄になって偶然との出会いもめっぽう減ってしまうだろうから。

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(相関基礎科学/物理)

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