HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

<時に沿って> 私と記憶と神経科学

北西卓磨

image637_3_02.jpg 二〇二二年三月に、生命環境科学系・先進科学研究機構の准教授に着任しました。二〇〇〇年入学の理科二類の学生として過ごした駒場キャンパスで研究室を開く機会をいただき、感慨ひとしおです。当時、どこかの予備校が「20世紀最後の東大生に」という標語を掲げていました。一キロメートル先まで稲穂の広がった田舎から出てきた私は、蓮實総長の難解な式辞に衝撃を受け、某社の「無名校からの東大合格者へ」という失礼なアンケートを破り捨て、多彩な講義群に眩暈と歓喜を覚え、駒場寮を見上げ、第二外国語に苦しみ、一人暮らしのアパートでピーヒョロと鳴るモデムの音を聞きながらインターネットに接続していました。どれも懐かしい記憶です。その後、本郷の薬学部・薬学系研究科を経て、ノルウェーに留学しました。
 3・11のとき私は向こうにおり、赤十字の募金箱を抱えて同僚と街頭に立ちました。母親が財布を持たせ、幼い子がなかの小銭をすべて募金してくれました。多くがそんな調子で、思わぬ金額が集まりました。涙の出そうな記憶です。帰国し、京都大・大阪大・大阪市立大を経て、今に至ります。あと数年で一世紀を生きる祖母の記憶が危うくなってきたと、実家の両親が言います。寂しくも記憶はいつか失われ、また、同時に生み出され続けています。
 「私は何者か」という漠然とした問いに、考えを巡らせたことはないでしょうか。こうした抽象的な問いに、明快な答えを出すことは難しいかもしれません。一方で、「私」を形作るアイデンティティの大部分は、時に沿って蓄積した記憶に依るように思えます。記憶は、過去と現在の自分を繋ぐものですが、それだけではありません。記憶をもとに、考え・予測し・意思決定を行います。つまり、現在と未来の自分をも繋ぎます。こうした、記憶とそれに関連する脳機能の仕組みを解明できれば、前述の問いの良い近似解になるかもしれません。私の専門は神経科学、なかでもシステム神経科学と呼ばれる分野です。多数の神経細胞の織りなす巨大なネットワークの中を、神経活動がどのように駆け巡り、情報を処理するかを調べています。そして、記憶などの高次の脳機能がどのように実現されるのかを探求しています。技術の進歩により、一つの神経細胞の計測で精一杯だった時代は終わりを告げ、数百個以上の神経細胞の活動を一挙に計測できるようになっています。得られるデータは大規模になり、機械学習を含めた新しい解析手法が積極的に開発されています。くわえて、各種の分子ツールにより、かつてない時空間精度で神経回路に介入し、記憶を含め多くの脳機能を操作できるようになっています。このように、システム神経科学の前線は、生物学・情報学・化学・物理学・数学・心理学などを巻き込んだ総合学問の様相を呈しています。私の研究室では、このような神経科学の前線を切り開き、脳の動作原理を明らかにしていきます。「脳を理解したい」と考える熱意あふれる方が、研究に参加してくださることを期待しています。

(生命環境科学/先進科学)

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