HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

<時に沿って> フィールドでの 学びと痛み

浜田明範

image637_3_03.jpg 最近、よくデデのことを思い出す。
 ガーナ南部に暮らすアカン系の人びとは機会に応じて使い分けるいくつもの名前を持っている。そのなかのひとつに、母親が何番目に産んだかに応じてつけられる呼称がある。「デデ」というのは、四番目に生まれた子どもにつけられる名前だ。サッカーに詳しい人は、ガーナ代表のキャプテンを務めたアンデレ・アイユ(André Ayew)が、デデ・アイユとも呼ばれていたことを思い出すかもしれない。だが、私にとっての「デデ」は、若くして亡くなった美しい母親だ。
 人類学者は、数年にわたるフィールドワークを通して、人びとの日々の生活から何事かを学ぼうとする。ガーナ南部の田舎町で調査を始めた私は、昼間に客を待ちながら暇を持て余していた髪結いや仕立屋を順々に巡りながら、少しずつ、人びとと親交を深めていた。デデは、私が借りていた部屋の一番近くにある髪結いで修業していた三人の見習いのうちのひとりだった。
 ある日、デデは同僚のルカヤとともに、私を訪ねてきた。修業を終えて一人前の仕立屋になることを祝うパーティーがあるので出席して欲しいとのことだった。何かしら学べることを期待しつつパーティーに出席した私は、このパーティーが単なるお祝いではなく、主役のために参列者がお金を出しあうためのものでもあることにすぐに気がついた。時すでに遅し、わずかな金額しか持ち歩いていなかった私は、何ともばつの悪い、痛みを伴う気恥ずかしさを味わうことになった。今から思えば、さほど遠くない自分の部屋に戻り、格好のつく額を持ってくればよかったのだが、当時は、そのことに思い当たらなかった。それでも、デデやルカヤの態度が変わることなく、会うたびに愛想よく話し相手になってくれた。
 実のところ、私はデデと特別に仲が良かったわけではない。妹のココや夫のサーコディ、あるいは同僚のルカヤとの関係の方がむしろ親密だった。だから、デデの体調があまり良くないと聞いたときも、強く踏み込むことはできなかった。友人のサーコディを訪ねたときに、いつものように明るい声で「アキ!」と呼びながら玄関先まで挨拶に来てくれた姿を見て喜び、完全に油断していた。それが、私が彼女の姿を見た最後の機会になった。最愛のデデを失ったサーコディは酒に溺れ、後を追うように亡くなってしまった。このときは、病院に見舞いに行き、酒をやめるように窘め、わずかばかりの額の援助もした。とはいえ、ガーナと日本を往復していた私にできることは多くはなかった。
 翻訳やパンデミックへの対応の分析など人類学者としていろんなことに手を出してきましたが、ガーナの友人たちが教えてくれたこと、そこでの失敗や後悔の痛みが、私の研究の原点であり基盤です。そのことを忘れずに、学生たちとこれからの人類学の姿を模索していきたいと考えています。

(超域文化科学/文化人類学)

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