HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報637号(2022年6月 1日)

教養学部報

第637号 外部公開

<時に沿って> 「時」の複層性

松井裕美

image637_5_02.jpg 二〇二二年四月、総合文化研究科超域文化科学専攻に准教授として着任しました。〈時に沿って〉というタイトルのコラムで自己紹介文の執筆を依頼された時には、少し悩みました。私が寄り添ってきた「時」とはどのようなものだろうかと、ふと考えたからです。
 私の専門はフランス美術史です。歴史を研究する、ということは、現代に生きる人間として過去に目を向ける行為でありながら、同時に過去の「時」へと深く潜る作業を通して、それまでとは違う見方を身につけていくことでもあります。それは必ずしも「歴史を知ることによってより良い生き方ができるようになる」といった道徳的な意味での変化ではありませんし、また現在と完全に切り離された客観的な見方で過去を見たり、逆に特定の時代のものの見方に同一化したりするという変化でもありません。
 私が二〇一五年にフランスの大学に提出した博士論文の研究では、フランスの前衛運動であるキュビスムの絵画や彫刻において、美術解剖学の知識が一つの重要な着想源となっていたということを明らかにするものでした。そのためには、分析対象とする芸術家の素描や草稿を調査するだけでなく、美術解剖学という知識そのものが持っている歴史について学ぶ必要がありました。ただし、芸術家たちが参照していた個々の諸理論の起源と発展の歴史のうちには新たに解明したり解釈し直したりする必要がある部分も多く、十七世紀から二〇世紀初頭にかけての解剖学や医学関連の一次資料の調査にあたることもありました。この研究からある程度満足できる成果が得られたので、十九世紀の美術解剖学についての論文をフランス語で二本発表したのですが、この論文を執筆したすぐあとには、二〇世紀のキュビスム研究に戻るのに意外な戸惑いを覚えました。キュビスムの歴史は過去の美術の諸様式との断絶というシナリオによって語られてきました。しかし解剖学が織りなす広大な歴史の織物の中に置き直してみると、キュビスムの画家たちの作品や著述が、従来の美術史における位置づけとはまったく違う諸相を見せるようになったのです。異なる分野の「時」を遡り、それとの接点を探ることで得られたこの視点の転換は、二〇世紀の古典主義やレアリスムについて問い直すその後の私の研究の出発点となりました。
 過去の芸術家たちは、単に美術の歴史の中でのみ生きていたわけではなく、同時代の文学や音楽、演劇、建築、思想からインスピレーションを得て、科学や技術に魅了され、時には流行を追い求め、社会や政治の動きに翻弄されるなかで、複数の異なる「現在」や「過去」と関わりながら生きていました。私たちが寄り添って生きる「時」もまた、よくよく考えてみると、決して単線的なものではないはずです。歴史研究に限らず、たくさんの人やものや言葉に出会うことで、私たちが生きている「時」は、幾重もの層を成していくものなのかもしれません。駒場で学ぶ学生の皆さんにとっても、大学で過ごす時間が、そのような複数の層を持つ「時」を拓く一つのきっかけとなるよう、願っています。

(超域文化科学/フランス・イタリア語)

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