HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報639号(2022年10月 3日)

教養学部報

第639号 外部公開

<本の棚> Moss, Kenneth B., Benjamin Nathans, and Taro Tsurumi, eds. From Europe's East to the Middle East: Israel's Russian and Polish Lineages

黛秋津

 本稿執筆の数日前、イスラエル軍によるガザ地区への空爆により「イスラーム・ジハード」の指導者らが殺害され、その報復としてパレスチナ側がイスラエル領をロケット弾で攻撃したとの報道に接した。このような出来事がもはや日常茶飯事となっている感のあるパレスチナ問題については、これまでに様々な研究がなされてきたが、アラブ側の視点と同じく重要なのが、いわゆる「イスラエル研究」であることは言うまでもない。イスラエルという国家とその社会の理解なくして、パレスチナ問題の理解と考察は不可能である。そして、そのイスラエルという国家と社会を決定的に性格づけたのは、東欧からのユダヤ人移民であったことは、我々が知っておくべき事実であろう。本書は、十九世紀後半からソヴィエト期にかけての、東欧のユダヤ人と、「イシューヴ」と呼ばれるパレスチナのユダヤ人共同体との歴史的関わりを、十四名の著者が多様な角度から論じた論集である。

 本書の冒頭で指摘されるように、シオニズム運動やイスラエル国家は欧米と強いつながりを持っており、また、中東においては西側民主主義国家とも見なし得る数少ない国でもある。こうした背景からイスラエルはしばしば「西洋の飛び地」などと定義されるが、実際には、建国の担い手であったのは、多様な民族が複雑な関係を持ちつつ共存していたロシア帝国の下で生まれ育ったユダヤ人たちであった。ネイション・ステイトを経験したことのない彼らが、いかにしてイスラエルという(軍事色の濃い)民主主義国家を短期間で作り上げたのか─この問いを出発点として、各著者はそれぞれの視点から考察を行う。

 本書は四部構成となっている。第一部「帝国的坩堝とナショナルな坩堝」の四つの論考は、十九世紀後半からロシア帝国崩壊を経て戦間期にいたる時期の、東欧のユダヤ人の置かれた環境と歴史的経験に注目し、それらをパレスチナ移住後との関連で論じる。イデオロギー、アイデンティティ、思想文化など多様な面で、東欧での経験が、移住後のユダヤ人社会に受け継がれたことが示される。第二部「集団と制度」では、東欧からパレスチナに「移植」されたとされる制度について、ソ連の社会主義シオニズム実践としてのキブツ、ポーランドの正統派女子学校教育、ハシディズムなどを具体例として慎重に検討される。第三部「政治文化の形成」は、ロシア革命後、ユダヤ人の政治活動の中心となった戦間期ポーランドに焦点を当て、ユダヤ人の若者の間で象徴化された政治文化の中の暴力、そしてポーランド国家が民族的ポーランド人のものであるとする国家概念などに関して、その後成立するイスラエル国家への継承について議論する。同時に、理念的なものに過ぎなかったイシューヴが現実のものとなったことにより、その存在がポーランドのユダヤ人の意識にいかなるインパクトを与えたかという、パレスチナ側から東欧側への影響も論じられる。第四部「ソヴィエトの幕間」は、アメリカやパレスチナのユダヤ人と連携して行われた一九二〇年代のユダヤ人によるクリミアへの農業入植、そして東西冷戦期のソヴィエト=シオニスト(出国ヴィザを拒否された人々)の人的ネットワークの検討を通じて、ソ連のユダヤ人がシオニストやその他の国際的な人的ネットワークから切り離されていたとする従来の見解を再考する。

 本書に収められている十四の論考はいずれも、イスラエル研究における東欧とパレスチナのトランスナショナルな関係の重要性を再確認させる内容であり、これが本書を貫くテーマである。各論考とも、東欧出身のユダヤ人による政治・思想・文化のパレスチナへの移植という単純な見方を退け、その双方向性にも留意しつつ慎重な検討を行っている点は好感が持てる。パレスチナのユダヤ人社会を中心に、多様で複雑なトランスナショナルな運動と力が交差するイスラエル/パレスチナの歴史を理解する土台として、本書が明らかにした内容は極めて重要と思われる。また、東欧史を専門とする評者にとって本書の内容は、こうしたネットワークを持つユダヤ人の存在が、近現代の東欧社会において無視し得ない重要性を有していることを改めて認識させるものであった。

 本書は、二〇一五年に東京で開催された「イスラエル史と東欧史を仲介する─ロシアとポーランドからのシオニズムとユダヤ移民」と題する国際シンポジウムの成果の一部であり、それを企画し成功に導いたのが、評者の最も近い同僚である鶴見太郎氏である。本書の執筆者を含む参加者たちは、イスラエル研究の第一線で活躍する研究者であり、こうした高い水準の国際シンポジウムが本邦で開催され成功を収めたことの意義は大きい。それ故、その成果である本書は、日本のイスラエル/パレスチナ研究における記念碑的な一冊と位置付けられるのではないだろうか。

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University of Pennsylvania Press

(地域文化研究/歴史学)

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