HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報639号(2022年10月 3日)

教養学部報

第639号 外部公開

<本の棚> 伊達聖伸・藤岡俊博 編『「暴力」から読み解く現代世界』

森井裕一

 ロシアによるウクライナ侵攻は、主権国家間の激しい軍事力の衝突が現在でも起こりうることを見せつけている。国連安全保障理事会の常任理事国であるロシアが隣接するウクライナの主権を侵害して領土を蹂躙し、多数の死者を出す戦争を続けていること、そして平和を維持するために脅威を認定し回復すべき集団安全保障体制の主体である国連安保理が機能不全に陥っていること、積み上げられてきた多くの国際規範がいとも簡単に蹂躙されていることは衝撃的である。国家間の軍事衝突により、ミサイルや戦車といった暴力の手段の行使とその被害を、ニュースで見せつけられる日々が続いている。これははっきりと可視化されたわかりやすい暴力の例であるが、少し考えてみると、暴力について論じることは実は容易ではないことに誰しも気づくであろう。暴力は定義からして容易ではない。
 本書はこの難しい問題に正面から取り組んでいる。大学院総合文化研究科地域文化研究専攻が毎年開催している専攻シンポジウムでの報告と討論を核としているが、先行研究による定義や思想的議論を組み込み、再構成することによって、専門的で深い議論を幅広い読者に届けることに成功している。その結果として、学際的な地域文化研究の学問としてのおもしろさをよく示している。特定のディシプリンや特定の地域の研究に集中せず、かといって散漫な事例の集積ではない。それを可能にしているのが編者たちの企画力であり、二部構成の妙である。
 編者は冒頭で暴力論のこれまでの展開を押さえ、議論の前提となる定義を紹介している。「私がいきなり誰かを殴ることは暴力だが、ボクシングの試合で選手が殴り合うことは暴力ではない。私が誰かにナイフで斬りつけることは暴力だが、外科医が手術時にメスで身体を切開することは暴力ではない。」(10頁)と編者がミショーの暴力の相対的定義を敷衍して暴力についてわかりやすく説明している。ある行為は、状況を規定する基準や規範から逸脱すると暴力となる。そうであれば、同じ問題を別方向から見ることも可能である。つまり、ある時代の社会が何を暴力とみなしているのかを知ることができれば、その背景にある社会規範、社会の本質を理解できるということになる。しかし、公権力の行使などの場合には逸脱したか否かの判断基準が状況に依存するので、議論は対象となる社会の丁寧な分析が不可欠となる。
地域の具体例をあげ分析を提示する第Ⅰ部ではフランス、香港、アメリカ、国際法と治安部門、人間の安全保障と日本における難民問題、在日朝鮮人と社会の問題が取りあげられ、それぞれの地域・問題における歴史と暴力の固有な関係と、社会の変化にともない暴力が新たな社会的文脈の中に位置づけられる変化が論じられている。
 第Ⅱ部はミャンマー、旧ユーゴスラヴィアとウクライナ、レバノン、マリ、メキシコを取りあげているが、読者の多くにとって「遠い」地域における暴力の問題を論じることで、見えにくい暴力の問題に関心を向けている。地域における固有の歴史的経緯の分析に加えて、目に見える暴力だけではなく、格差による不平等状況の問題、可視化されない暴力を生み出す背景となる構造的暴力にも広く議論が展開されている。
 本書の執筆者たちの学問的背景は多様である。そのため方法論的多様性と学際性に加えて、地域的な多様性を背景に暴力を論じることができている。そして、それぞれの社会が歴史的に異なった背景から抱える固有の問題が、暴力論を通して社会的に構成され変化していく社会という普遍的問題意識で串刺しにされてつながっていることがわかる。さらに、国境を越えてつながっていく問題であるがゆえに、議論が政策的含意を持ち、問題解決のための行動への示唆にもなっている。人々を傷つけ苦しめる暴力を正当化したり、隠蔽したりして社会的に問題ないものとしてしまう規範を作るのも人々であるし、見逃されていた社会的・構造的問題を暴力として定義して解決への糸口をつくるのも、不可視的なものを可視化・意識化する行動をとり、認識を変えるのも人々である。多様な事例から暴力について社会の一員として主体的に考える必要性に気づかせてくれる本書は、誰にとっても必読の一冊である。

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提供 東京大学出版会

(地域文化研究/ドイツ語)

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