教養学部報
第640号
<本の棚> Takeshi Matsumura, Le sentiment va vite en voiture Recueil de nunu balzaciens
森元庸介
フランス語彙研究の世界的権威である著者が......と書き始めれば、著者そのひとにすぐさま制止されそうだ。「あなたはどうやってそれを確かめたのか」。検証抜きに引き継がれた憶説や伝聞からいつしか拵えられたような権威があるとすれば、著者ほどにそこから縁遠いひともいない。
疑えない事実を改めて記すなら『中世フランス語辞典』(二〇一五年)の編纂によってアカデミー・フランセーズから二〇一六年度「フランス語圏大賞」を受けた─その委細については『教養学部報』第五八七号を参照されたい─著者による本書は、一九世紀フランスの大作家オノレ・ド・バルザックの膨大な著作や書翰を対象に、数多の専門研究者が誤解、看過してきた語彙や表現(副題にいう« nunu »)を取り上げ、しばしば思いも寄らぬその意味と来歴を明らかにしながら作家と作品に新たな光を投げかけたものである。
収められた全二〇章は長いもので一九頁、いちばん短くて四頁だから、個々の試行は分量の点からすればきわめて慎ましい。だが、真に驚嘆すべき学識を土台とする妥協のない博捜は、そのつどひとつの言語世界とも呼ぶべき拡がりを現出させる。冒頭第一章が取り上げるのは« idémiste »という言葉である(「同じく主義者」とでも訳せばよいか)。ひさしくバルザックの造語とみなされてきたが、実際には少なくとも一七〇一年、さるイエズス会士による著作に遡ることが特定され、その後も神学の議論で付和雷同に終止する手合いを皮肉る隠語として用いられつつ、作家の同時代になお活きた語彙であったことが各種辞典に依拠して確証される(なくもがなの一言を添えるなら、遡って終わり、なのではないわけだ)。これを皮切りに、読者は狭義の文学作品はもちろん、法曹界の職業表現や国王の演説、はたまた科学書やシミ抜き洗剤の広告文等々をめぐる数々の逍遥へ誘われ、その途上でディオゲネス・ラエレティオス『ギリシア哲学者列伝』のラテン語訳にそっと挿まれた一文に出会ったり、掛け取りに訪れた相手をやり込める絶妙の切り返しや「蜘蛛を食する天文学者」をめぐる食卓の噂話を耳にしたりしながら、作中人物の口にする片言隻句がその来歴をみごとに照らすさまに驚き(一例をだけ挙げれば第七章で扱われる名うての代理販売人ゴーディサール)、顧みられること少ない作家の同時代人(とりわけ第一〇章がその受容の拡がりを明らかにするピエール=ジャン・ド・ベランジェ、第一一章の主役となる「超批評家(hypercritique)」シャルル・ルメル)への興味を抑えがたく呼び起こされもするはずだ。
著者の師のひとりミシェル・ザンクは序文で「〔本書〕の学識はひとを楽しませてくれる」と述べ、その喜びを曲芸師や手品師の妙技を前にしたそれになぞらえている。本書のどの細部にもあてはまる評言であろうが、ひとつの範例として第八章を挙げてみる。そこで著者は掌編「女性研究」(一八四二年)の複雑な生成過程を辿りつつ、バルザックが« bourguignon »という語をめぐって一時は論文風の脚註形式を用いながら「テクストのごく些末な細部を説き明かそうと執着する学者たちの文体のパスティーシュ」を仕掛けていたことを明らかにする。ただ、ある段階で脚註形式は解消され、その内容は本文に取り込まれた。結果として当のくだりの「遊戯的な性格」が見えづらくなったことを「惜しむべきかもしれない」。一連の指摘には、むろん、自身がからかいの対象とされながらそのこと自体を見逃してきた「学者たち」への痛烈な皮肉がおのずと込められよう。しかしそれよりもはるかにまさるのは、見えずにあった作家の遊び心が鮮やかに復元されるさまを目にする爽快な喜びである─その妙技に少しのまやかしもなく、種も仕掛けもことごとく明かされてあることへの改めての驚きとともに。
「そのことならもう研究され尽くしている」といった呟きを教室や廊下でしばしば耳にし、自身でもふとした折に漏らしかねない。それが油断と怠惰による奢りにすぎぬことを厳しく唆す本書はまた、あらゆる偽りの権威と無縁に開かれてある広大な探求の園を優雅な慎みとともに指し示し、そのかぎりで、とりわけ若い精神へ宛てられた誘惑の書物ともなっている。
(Peeters Publishers, 2022)
(超域文化科学/フランス語・イタリア語)
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