HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報641号(2022年12月 1日)

教養学部報

第641号 外部公開

<送る言葉>往還する美術史家 ─三浦篤先生に贈る

今橋映子

 「美術史家」という不思議な日本語がある。要は美術を研究する人─なのだが、私のような文学研究者は「文学家」とは勿論言わず、「文学者」が微妙なところだろうか。「美術史家」にはどこか、文化の伝統に連なりながらアートの根源に迫っていくような品格が漂う。そしてまさしく三浦篤先生は、その立ち居振る舞いから、仕事の内容に至るまで、「美術史家」ということばにふさわしい存在であることを、知る人全てが認めるであろう。
 三浦先生に初めてお会いしたのはおそらく、私がまだ博士課程院生であった頃、故阿部良雄先生のシャルル・ブランについての演習の時だった。何かの展覧会カタログの書評執筆について、阿部先生とてきぱきとやりとりしている大先輩が三浦先生で、その颯爽とした振る舞いが大変印象的だったことを、今でも鮮明に覚えている。
 その数年後、一九九八年に私が駒場に赴任するにあたり再び三浦先生とご縁がつながり、それから実に二十五年以上、駒場の三層構造の全ての所属が同じ私は、同僚として洵にお世話になった。時には先輩の同僚、時には学兄、時には同志として、常変わらず接してくださったことに、この場を借りて改めて御礼申し上げたいと思う。
 三浦篤という美術史家の仕事の全容について、あまりに膨大なためにここにはとても書き切れない。サントリー学芸賞(二〇〇七年)、フランス共和国芸術文化勲章シュバリエ(二〇一五年)、和辻哲郎文化賞(二〇二一年)、芸術選奨文部科学大臣賞(二〇二一年)など、国内外の多くの受賞・受勲は三浦先生の業績を何よりも物語っているだろうが、ご本人は全くそれに頓着することなく、ご自分の仕事に淡々着々と取り組んでいるように拝察してきた。その仕事は大きく、マネ、ファンタン=ラトゥールなど十九世紀フランス絵画を中心とする西洋美術史と、黒田清輝とコランの関係を中心とする日仏近代美術交流史の二つの系列があり、しかも著作の刊行のみならず、関連する多くの美術展覧会の監修の仕事をこなされてきた。駒場博物館館長としても、洋画の修復事業をはじめ重要な事業をいくつもされている。つまり、洋の東西を往還するのみならず、大学と美術館を往還する仕事をされてきたのである。さらには学界と一般読書界を往還するような優れた入門書の執筆や、テレビ解説などの仕事もされてきた。
 ところで、駒場の同僚であった私は、そうした美術史家の仕事がどれほどの努力と鍛錬の上に成されてきたか、より一層感じ入る理由がある。それはご自分の研究のみならず、駒場の行政と教育のどれもに「全く」力を抜くこと無く貢献された先生の姿を、誰よりも身近に知っているからである。三浦先生は、ご自分の出身研究室ではない「比較文学比較文化研究室」のあり方を誰よりも思考し、「比較芸術」という教育プログラムを(私と共に)立ち上げ、海外拠点との研究交流を盛んにし、その中で多くの博士論文を指導した。そして十年前の後期課程改革の折には自ら先頭立って、「比較文学比較芸術」という新しいコースを創設した。行政家・三浦篤はいつでも、明快な目標と道程を掲げ、粘り強く交渉を重ねて最後にはかなりの確率で目標に達することができる。おおよそ「美術史家」の古典的イメージとはほど遠い実務家に変身するのだが、それが同僚にとってどれほど頼りがいがあったか分からない。二〇一七~二〇一九年度は超域専攻長としても活躍された。
 こうして行政・教育・研究をいつも軽々と往還して駒場の激務をこなされた三浦先生が、けれどもその奥底にいつでも「美術史家」としての芯のようなものを手放さない見事さを、私はずっと拝見してきたように思う。それはいつでも美術作品と向き合い、堪能し、究めて書こうとする魂のようなものだろうか。駒場から解き放たれる今、その往還の旅がどこに向かうのか、私は一人の読者として楽しみに、新しい旅の報告をお待ちしたいと思う。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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