HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報642号(2023年1月 5日)

教養学部報

第642号 外部公開

<本の棚> トム・ガリー 著 『英語のアポリアネイティブが直面した言葉の難問』

渡邊日日

英語論の海を航行するときの羅針盤

 英語で論文を書くとき、自分の第一言語が英語だったらどんなに楽なんだろう、と思ってしまうことがある。はやく仕上げられるだろうし、なんと言っても校正料がかからない。たしか佐々木倫子の『動物のお医者さん』に、英語ネイティブのモノリンガルの学者にハンデをつけろと暴言をはく、博論執筆中の院生が登場していた。しかし同時に、なんとツマラナイことを自分は考えるのか、ともうっすら感じていた。そもそも、英語とは何なのか。
 本書は、長年、駒場で英語教育に大きく尽力してきた著者の回想的随筆であり、その題名が十二分に内容を伝えている。英語という言語そのものの特徴から、日本における英語教育のあり方、様々な言語を通して世界に開かれる態度に至るまで、数多くの論点を扱っている。著者の思考に、臨場感をもって触れることができる小著だ。全一七章だが、章の終わりと次章の始まりがいわばアタッカのように連結しているので、巻物を紐解くように論理を追う読書経験をもたらしてくれる。
本書の最大の特徴は、常に自分や自分の考えを静謐に相対化して、認識の幅広さを確保しようとする著者のスタンスだ。自分が規則や反復を好む「オタク」で、言語の「認知面」に惹かれてきたことを何度も認めながら、言語は「自然言語」であり、人間の生を形作る「社会的」側面であることも強調する。数々の文法規則に英語もまた縛られていることを、教育者として強く意識しながらも、英語にとって「正しさ」の観点が複数あり、「間違い」を容易には指摘できない「ぐんにゃりした言語」に英語がなっていると認める。北米出身の英語話者ゆえネイティブ教員として活躍してきた一方で、正確な翻訳や文化の理解のための「ノンネイティブ講師の良さ」も主張する。
 英語を第一言語とし、専門的な言語学の教育を受けた人が来日し、日本で英語教育に携わること、そして、その経験をもとに英語や英語教育について本を書くことは、珍しくないだろう。類書のなかで本書を際立たせているのは、自己(英語やネイティブであること含む)の相対化であったわけだが、これを可能としている一つの背景は間違いなく、著者がロシア語(高校生のとき)と中国語(大学生のとき)を勉強した過去にある。それぞれの言語をどのように学習し、どのような関心をもって接したのかを振り返りながら─習得できなかったところについても考えが及んでいるのが冷静な著者らしい─著者は日本語学習に自らの勉強法を活かし、また、様々な英語教育を試みてきた。どちらにおいても著者が成功してきたことは、前者については日頃接している駒場の教職員ならばよく知っており、後者については駒場の学生がよく知っているか、これから感謝の気持ちとともに思いだすことになるだろう。
 とはいえ著者は、相対化に甘んじているのではない。本書の最後の数章は、「英語の最大の問題は英語そのものにある」という結語に向かってテンポを速めていく。英語とは一つの言語なのではなく、世界の諸言語(World Englishes)だという主張を評者も聞くが、要するに英語は、それ自体が自然言語の成り行きとして、またグローバル化によって、多様化した。そういう英語が、一方で学習者の能力や関心の個人差と、他方で「全員一致に教え」るという教育方法や、同一の基準で能力を測るという試験との間で、板挟みになっているのである。さらに著者は、外国語教育の対象としての英語は、機械翻訳の発達によっても難問を突きつけられていると言う。というのも、実用的目的であれば、今の英語機械翻訳は十分なレベルにほぼ達しており、苦労して学ぶ必要性を著しく減らしているからである。
 その軽やかな造本がもたらす印象とは裏腹に、本書は読者に重い課題を突きつけており、緊張度の高い思考を強いる時もある。評者は多くの点で著者の主張に頷きながら、英語と自分との関係や言語教育の今後などを考えさせられた。いまのところ明快な解はない。そうしたなか、一息つかせてくれるのは、サラ・ガリー氏の微笑ましい挿絵である。

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        提供 研究社

(超域文化科学/ロシア語)




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