HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報642号(2023年1月 5日)

教養学部報

第642号 外部公開

<送る言葉> 久我隆弘先生を送る

鳥井寿夫

 私が最初に久我先生をお見かけしたのは、久我先生が駒場に着任して間もない頃に開催された、修士課程入試のための研究室紹介の会場でした。妙にイケメンな三十代の若手教員である久我先生(既に髭を生やされていました)が、「量子化された電磁場という衣をまとったドレスト原子」という、これまた妙なアイデアについて話すのを聞いて、教養学部基礎科学科の四年生だった私はすっかり「量子エレクトロニクス」という分野の虜になってしまいました。私は運よく、久我研究室の一期生として迎えていただきました。
 科学研究は、しばしばcuriosity-driven(好奇心駆動型)とmission-oriented(課題解決型)に分けられることがありますが、久我先生の研究室運営は明らかに前者でした。私は原子気体のレーザー冷却を研究テーマに選んだのですが、基本的には自分の興味の赴くままに実験し、何か必要な知識や技術が必要になる度に、さっと実験室に現れる久我先生に解決してもらう、という日々を過ごしました。私が論文になりそうもない実験に没頭していても、それを咎められることはありませんでした。そのような、一見回り道とも思える興味本位の実験の積み重ねが、実験物理学者としての私の基盤となりました。今、自分が研究室を運営する立場になって、自分が信じられないほど恵まれた環境にあったことを実感しています。久我研究室を巣立った多くの学生が、個性的な研究者として世界中の大学、研究機関で活躍しています。
 このように学生の興味に寄り添う久我先生ですが、もちろん自身の興味で実験を進めることもありました。一九九七年(私が博士二年生のとき)、穴の開いたドーナッツ型のレーザー光を生成する装置を慶応大の佐々田博之先生が開発していたのですが、久我先生の提案で、この装置を日吉から駒場に持ち込み、ドーナッツ光でレーザー冷却された原子集団をトラップする実験を行いました。実験開始から論文投稿まで一ヶ月もかからなかったと思いますが、この論文の被引用数は約千件に及び、現在も増え続けています。真にインパクトのある研究には、良いアイデアと瞬発力、そして仲間が必要であることを学ばせてもらいました。
 前期課程教育では、久我先生は特に基礎物理学実験の改革に力を注がれ、教育効果の高い実験種目を数多く開発されてきました。ご自身が編集委員を務められていた物理の雑誌『パリティー』で連載された全十二回の物理学実験講座は『〝測る〟を究めろ!─物理学実験攻略法』(二〇一二)として出版され、基礎物理学実験の副読本となっています。『理科年表』の物理/化学部の監修者も務められ、特にSI(国際単位系)に関する内容を充実させ、日本の科学界では必ずしも守られていない単位の正しい表記法の普及に貢献されました。
 久我先生のご退職によって、駒場の物理実験グループは大きな柱を失うことになりますが、学生に寄り添い実験を愛する先生の精神を引き継いでいきたいと思っています。

(相関基礎科学/物理)

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