HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報642号(2023年1月 5日)

教養学部報

第642号 外部公開

<駒場をあとに> 思い出、つづら折り

石田勇治

image642_5_01.jpg なぜドイツ語を選んだのかと訊かれると、正直口籠ってしまう。人に納得してもらえるような明確な動機はなかったからだ。でもなぜドイツ現代史の研究者を志したのかと訊かれれば、数ある理由の中で若い頃のドイツ留学(一九八〇~八一年)が決定的だったということができる。
 留学先のマールブルク大学政治学科は当時ファシズム研究の牙城で、私もそれに惹かれたのだが、師事する予定の教授が余りにも人気で多忙だったため、代わりに比較的若くて気さくな歴史学教授のゼミに参加することになった。それがよかったのだろう。私はそこで現代史の方法論と「論争文化」の面白さを体得したように思う。
 当時のドイツは、ソ連のアフガン侵攻を契機とする米ソ新冷戦に翻弄されていた。東側に対抗する西側の追随軍拡に反対する平和運動がマールブルクでも盛り上がり、緑の党も支持者を広げつつあった。私もゼミで知り合った友人と学生集会に参加したり、学生サークルが仕立てたバスで国境を越えて東ドイツの平和セミナーに出かけたりした。十一月九日には市民と学生が催した「水晶の夜」の犠牲者を追悼するサイレントデモに参加して、夜の帳の降りた幻想的なマールブルクの街を中央駅からシナゴーグ跡地まで蝋燭を手に仲間と行進した。日本では得られない体験ばかりで、ドイツ現代史への抑えがたい興味を抱いた。帰国後も勉強を続けたくて駒場の大学院に進んだが、博士論文は再度留学したマールブルク大学に提出した。
 駒場に専任教員の職を得たのは一九八九年四月。その年にベルリンの壁が崩れるなど誰が予想しただろうか。やがて冷戦は終わり、ひとつのドイツ、ひとつのヨーロッパが語られる時代になった。
 駒場では主にドイツ語とドイツ近現代史の授業を担当した。入学したての、期待で目を輝かせる東大生たちにドイツ語という彼らにとって未知の言語の導入を行うのはこの上ない喜びだった。全学自由研究ゼミや初年次ゼミではナチズムや戦後ドイツ史をテーマにすることが多かったが、初々しい学生たちの発表と討論にコメントするのは楽しみだった。後期課程や大学院で行った近現代史関係の講義や演習では、思わず舌を巻くような発表に遭遇することも度々あった。専門科目と語学という系統の異なる二種類の授業をこなすことが、駒場の外国語系教員には求められるのだが、役回りの違う舞台を一人で演じる役者のようで、これがなかなか愉快なのだ。
 大学院重点化の結果、私は地域文化研究専攻の教員となった。ここは方法論も対象地域も異なる、広い意味の文化研究者のコミュニティだが、異分野の様子が気になる性分の私には居心地のよい場所だった。コロナ禍の下では望めないが、昔は頻繁に行われていた懇親会が懐かしい。専攻長としては、専攻研究集会の定例化を提案させていただいたことと、「アリーナ問題」(キャンパス内に収益性をともなう巨大アリーナを建てるという案)が浮上したとき、その教育面への支障を危惧する専攻会議の良識にしたがって反対の意見を表明したことが、いまも記憶に残っている。
 サバティカルは三回いただいた。なかでも一九九八年、変貌著しい首都ベルリンでの研究滞在は一番の思い出だ。目的はジェノサイド研究の方法論の検討だったが、ドイツでは政権が変わったこともあって、強制労働補償問題やホロコースト記念碑の建設などナチ時代に起因する困難な問題をめぐって議論が盛んに行われていた。私も無関心ではいられず、公論の行方をリアルタイムで追った。戦後西ドイツ史学の重鎮たちの「過去」が争点となったフランクフルト歴史家大会は前代未聞、若手から中堅、大物まで歴史学徒が壇上に上がって思いのたけを述べる姿は目に焼き付いている。私にとっても「過去の克服」問題は避けられないテーマとなった。ちなみにベルリンの連邦文書館に日参して南京事件に関するドイツ外交文書を渉猟したのもこの頃のことだ。
 ジェノサイド研究は、当時ドイツのアカデミズムで支配的だった「ホロコースト特異論」への批判の意を込めて始めたのだが、比較を重視したためかドイツでの反応ははいまひとつだった。それだけに二〇〇三年の日本学術振興会「人文・社会科学振興プロジェクト研究事業」にこれが採択された時は嬉しかった。五年続いた本プロジェクトでは、内外の優れた研究者の協力を得て学際研究の醍醐味を味わった。短期間であったが雑誌Comparative Geno­cide Studiesを刊行し、International Network of Genocide Scholarsの年次大会で駒場の若手とパネルを組んでジェノサイドとその予防に関する議論を行ったことは忘れられない。
 ドイツ・ヨーロッパ研究センターは、私にとってかけがえのない仕事場だった。とくに二〇〇七年からハレ大学第一哲学部との間で始めた「日独共同大学院プログラム」(日本学術振興会/ドイツ研究協会のジョイント事業)は、市民社会研究を旗印に専門教育と研究実践を融合するユニークな国際教育プロジェクトとなった。毎年春と秋に東大とハレ大で交互に開催した合同セミナーはいつも準備が大変だったが、十年も続けられたのは日独双方の関係者の熱意と堅い信頼関係のお蔭である。
 駒場で数多くの優れた博士論文に指導教員として関わることができたことも僥倖という他ない。私自身博士号のお蔭で研究者への道が拓けたとの思いが強かったので、ともかく指導学生には博論執筆を勧めた。若い時期にあるテーマに集中して成果を出すことは、将来の土台づくりになる。そのことに間違いはないだろう。
 三十四年間の教員生活の最後につくづく思うことは、東大・駒場の「よさ」である。適当な言葉が浮かばずもどかしいが、多様性を当然のこととする、デモクラティックでリベラルな校風とでもいうべきか。東大憲章が掲げる市民的エリートを育むに相応しい場所、そんな駒場が私は好きだ。ここには無限の発展の可能性が宿っている。
 益々のご発展を祈念して、お別れの言葉としたい。

(地域文化研究/ドイツ語)

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