HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報644号(2023年4月 3日)

教養学部報

第644号 外部公開

<本の棚> 王欽 著『魯迅を読もう〈他者〉を求めて』

石井 剛

 本書は夜に始まり夜に終わる。夜は暗く闇は深い。暗闇に浮かび上がるのは新しい政治が誕生する可能性である。作者にとってその可能性を探すことは「文学の意義」に立ち返ることによって行われる。
 本書は魯迅の雑文八篇を論じている。作者はその中でまず『いい物語』のなかに「暗く沈んだ夜」に収斂していく語りを見出し、最終章では、『阿金』の語りに「夜の光」を見出す。それは決して夜から朝へと向かう黎明の光ではない。なぜなら、「暗く沈んだ夜」と「夜の光」との間に本質的なちがいは認められないからだ。「光」はいかなる意味でも夜に対する否定ではない。「文学が開いてくれる可能性は、つねにすでにこの夜の平面に潜んでいる」(二五一頁)のであり、他にはありえないからだ。しかし、これは魯迅を読むことによって文学の意義にもどろうとした路程が無駄だったことを意味してはいないはずだ。
 新しい政治の可能性とはなんだろうか。他者に遭遇した瞬間に政治は生まれる。夜の光は既存の意味連環を異化し、不眠の人たちに事物の存在を開示する。そこに現れる事物は、昼の生活が律する秩序を喪失した「意味なき存在」である。その唐突な現れの前で、世界は意味を喪失し、だからこそ、人は他者との関係をそこから再び始めることを余儀なくされるだろう。この瞬間にこそ新しい政治の可能性は開かれ、文学の可能性は垣間見える。魯迅の雑文は晩年にその高みに至った。開かれるのは「非政治的政治」(二五二頁)であり、混沌たる雑文の世界は「無秩序的でありながら秩序を形づくるために不可欠な鋭い感受力」(二五二頁)を読者に要請する。こうして魯迅の雑文は、他者との共存の契機を喚起していく。
 注意しなければならないのは、「文学の意義」にもどるとは、「文学がわれわれに何を期待しているのか」(六頁)を考えることにほかならないことだ。「感受力」とは文学の期待に応える力のことである。『魯迅を読もう』という書名は、感受力を鍛えることによって、長らく忘れられていた政治を再開することをわたしたちに呼びかけている。わたしたちは、こうして自己に返ることを迫られる。自己は自らの内側から自己であるのではない。自己はつねに外側から喚起される。
 作者がここで念頭においているのは、他でもない、竹内好である。竹内は文学における近代の創立者として魯迅を把握し、その魯迅に政治を見出した。したがって、新しい政治は近代性と無関係ではない。竹内にとって近代の政治とはヨーロッパの自己拡張であり、それによって自己を見出した抵抗する主体の政治である。だがその抵抗は容易ではない。竹内はそのために「自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する」必要があると述べた。抵抗は成功するのだろうか。竹内なら「やってみなければわからない」と答えるだろう。未来へ─。魯迅の「希望」に沿いながら竹内はそこへ向かう努力を放棄しなかった。
 作者はいう、「〝未来〟を〝未来〟たらしめる所以は、そして〝未来〟が〝希望〟に等しい所以は、〝未来〟が現在において規定されたすべての可能性の外部にある」(一二五頁)からだと。文学は現在に依拠した判断を拒否する。未来の希望があるかないか、それは、いまここで明らかになるものでは絶対にない。文学のポテンシャルとはそのような未来にかけることでもある。では、わたしたちは文学からの期待に応えうるような「感受力」を持ち合わせているだろうか?わたしたちは、一切の予見とは無関係に到来するほかない未来に向かって、他者に出会いそれと共存することができるだろうか?
 それでもしかし朝はやがて来るだろう。わたしたちは夜の中で、「夜の光」に困惑し、秩序なき存在の前でたじろぎながら、しかし、「地上にあるともないとも言えない道」を歩く。その先にこそ「新しい生活」(一四〇頁)はあり、そこへ向かうには「バカの行動」(一五〇頁)にこそ価値があると作者はいう。作者はそうして竹内の先へ行こうとしている。
 本書の作者、王欽。上海、ニューヨーク、東京の深い夜の奥で本を読む人。本書は、新たに本を読もうとするすべての人に対する愛に満ちた彼からのエールである。

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 (春秋社、二〇二二年)

(地域文化研究/中国語)




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