HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報646号(2023年6月 1日)

教養学部報

第646号 外部公開

<本の棚> 津田浩司 著『日本軍政下ジャワの華僑社会『共栄報』にみる統制と動員』

岡田泰平

 本書は、注も含めて七八〇頁にもおよぶ大著である。コロナの前に一四号館のエレベーターでたまたまお会いしたときだったと思うが、『共栄報』のことを初めて伺った。日本占領期のジャワで刊行されていた華語とマレー語の新聞である。その後、三三巻にもなる資料集として『共栄報』が再刊行されている。私にも自らの研究対象であるフィリピンの場合で同じような体験があるのだが、日本やアメリカでは当たり前のように収集され、再刊行やマイクロフィルム化されている二〇世紀中葉の資料が、東南アジアではなかなかそうはならない。本書の「あとがき」から苦労が伺われるのだが、この資料集が刊行されたことを喜びたい。その上で、津田先生は、貴重な研究休暇がコロナ禍と重なってしまい、インドネシアでのフィールドワークが出来ないので、この資料の分析にその時間を費やすことにしたと言う。その結果が本書であるが、日本占領期の東南アジア華人研究(組織名等は原文に従い華僑と記す)としては、今までの研究の中で、おそらく最も充実した叙述となっている。
 もっとも津田先生は、この資料が基本的に日本軍政のプロパガンダであることを認識している。その上で、インドネシア・ナショナリズムと日本軍政の期待という、二つの大きな物語に回収されない、華人の姿に迫ろうとしている。つまり、インドネシア人と共に、日本やオランダと戦ったというわけでもなく、いわゆる対日協力者でもない。このような論述の方針を明らかにした上で、その記述の端々を他の資料で補足しつつ、彼等の行動を再構成している。その結果、親日と抗日という安易な枠組みに当てはまらない華人の足跡を、主には華人組織の構成から明らかにしている。
 初めに日本軍のジャワ進駐による混乱から、略奪にあった華人同胞を助けるための救済組織が自発的に出来上がっていく。状況が安定していくに従い、日本軍政は、華人に外国人居住登録を課していく。このような権力行使についても、一方的な判断を避け、上からの管理や登録料による収入という目的と共に、華人の高い登録率や大規模献金も描いている。また日本軍政は、華人社会の代表的組織であったバタヴィア中華総商会を解散する。中国国民党との繋がりが強く、構成員の多くが蒋介石派であったからである。そのかわりにバタヴィア華僑総会籌備委員会が出来上がり、華人による相互扶助が行われていく。華僑学校も再開されるが、必ずしも日本軍政の影響が浸透したわけではなかった。一九四三年から一九四四年にかけては、一部の華人による抗日事件が起きた反面、軍政主導の華僑総会が整備され、隣組が強化され、華人の警防組織が出来上がっていく。ところが、一九四五年八月に日本が敗れると、程なく華僑総会は中華総会に改変され、蒋介石派の人々に指導者層が入れ替わっていく。ただ、全体が入れ替わるわけでもなく、汪精衛(汪兆銘)を支持した人々も残り続ける。
 ジャワの華人は、新たな移住者で華語を使用し続けるトトッと、古くに移住しマレー語を主たる言語として使用するプラナカンとに分けられる。指導者層においては、前者が主に蒋介石派であり、後者は日本軍の後押しもあり、汪精衛を支持している。日本占領期に、蒋介石派のトトッは、一部には拘束収監されたりし、華人社会の中での指導的地位を失うのだが、日本占領期の終焉と共に、改めて復活してくる。このような民族組織の変遷を示す本研究は、事件や出来事に注目しがちな歴史叙述というよりも、より構造的な側面に注目する社会人類学的な研究と言えるのかも知れない。
 フィリピン史から見ると、このような華人のあり方は興味深い。ジャワとは違い激しい戦場となったフィリピンでは一見事情が異なる。親日派の華人は稀に資料に現れるが、ゲリラ活動が収まらない中、彼等は抗日派の華人に殺されたりする。また、シンガポールよりは規模は小さいが、華人を標的とした日本軍による虐殺も行われている。つまり、親日・抗日という区分けや日本軍の激しい敵意と暴力が明白である。ただ、私自身がこのような印象を持つのは、ごく一部の事例のみが記された、回顧録や戦争裁判資料に依りすぎているからという面もあろう。華人メディアを通時的にかつ細かく見ていくことにより、華人の全体像を把握する津田先生の方法に従えば、フィリピンでも似たようなよりしなやかな華人の対応があったのかも知れない。このような可能性を示してくれる本書は、極めて高い価値を有している。
 他方、本書は、居心地の悪い結論を示しているとも言えるだろう。『共栄報』に現れる華人は、侵略してくる日本軍に対して宥和的である。また、『共栄報』というプロパガンダ性の強い資料を使っているので、当然と言えば当然であるが、一九九〇年代以降、日本占領期のジャワに対する理解としては定型になったロームシャや従軍「慰安婦」の問題には触れられない。現在のウクライナの状況を考えると、結局、マイノリティの平均的な対応というのは、その時々の強者になびくことで、彼等をめぐる英雄譚や悲劇は後付け的に作られていく、ということなのだろうか。現在の状況を考えさせられる優れた研究書である。

image646_02_1.jpg
        提供 風響社

(地域文化研究/歴史学)

第646号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報