HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報647号(2023年7月 3日)

教養学部報

第647号 外部公開

ダイマー分子から成るガラスの超大規模分子シミュレーションの実現
四半世紀前の階層的エネルギー地形描像を立証

水野英如、池田昌司

 液体を冷却すると、融点で結晶化が起こる。この現象は熱力学の相転移として勉強する。ところが、しばしばこの結晶化を避けることができる。例えば、結晶化よりも素早く冷却することで、融点以下でも液体状態を維持できる。この冷たい液体を過冷却液体と呼ぶ。さらに冷却すると、終には液体状態のまま凍結する。これがガラス転移だ。転移と冠しているが、結晶化のような熱力学的転移とは違うことを強調したい。ガラスは我々のまわりに山のようにあるのに、我々は未だにガラスに凍結するメカニズムを理解できていない。
 これまでの理論研究では、できる限りシンプルな系を用いて、ガラス転移を理解しようとする試みがメジャーであった。最もポピュラーな系は、レナード・ジョーンズ・ポテンシャルでモデル化した「球形分子」から成る系であろう。まずは単純な設定にして問題を解こうとする姿勢は、全く以って真っ当である。ところがその一方で、現実の実験で普遍的に観測されているのにも関わらず、モデル系が単純であるが故に解析・議論できない現象が往々にしてある。その一つが、「Johari-Goldstein β緩和」あるいは単に「β緩和」と呼ばれる現象である。
 ガラス転移に向けて冷却していくと、分子の運動はどんどん遅くなっていく。この遅い運動のことを「α緩和」と呼んでおり、球形分子モデル系はα緩和を再現する。ところが実験では、ガラスに固まる直前の温度域で、α緩和とは別の、それよりも速い運動が出現することが観測されてきた。これがβ緩和だ。すなわち、現実の実験では、遅いα緩和と速いβ緩和の二つの運動が観測されるのだ。β緩和は様々な実験系で普遍的に観測されており、α緩和(あるいはガラス転移)とどう関係してくるのか?、そもそもどういう運動なのか?、といった疑問が持たれてきた。
 この疑問に対する答えとして、α緩和とβ緩和にはそれぞれ別々の自由度の運動が伴っているのではないか、という考えが提案された。さらに、この考えに基づいて、「階層的エネルギー地形描像」が提唱された。温度が低い過冷却液体の運動では、ポテンシャルエネルギーが支配的であるため、ポテンシャルエネルギー地形を〝這う〟運動になる、というのがこの描像の骨子である。この描像は今から四半世紀も前に提案されたものであるが、その後の理論研究は滞り、正当性の検証は宙に浮いた状態にあった。その原因は、β緩和を再現するモデル系に基づく理論研究が行われてこなかったことに尽きる。
 この膠着状態を打破すべく、白石薫平君(当時博士課程学生、現海外特別研究員)が中心となって、「ダイマー分子」から成る系の、超大規模分子シミュレーションを実現した。重要なポイントは、球形分子には並進運動の自由度しかないのに対して、ダイマー分子には並進運動に加えて回転運動の自由度が存在することだ。もし別々の自由度がα緩和とβ緩和を担っているのだとすれば、(球形分子には無い)回転自由度を加えることでβ緩和を捉えることができるのではないか、すなわち、ダイマー分子モデル系であればβ緩和を再現するのではないか、と着想した。
 さらに、実験ではβ緩和はガラス転移直前の低温度域で観測されてきたため、シミュレーションでもこの温度域にアクセスする必要がある。これを実現するために、レプリカ交換法と呼ばれる手法を適用した。球形分子モデル系への適用例はあるが、非等方分子モデル系への適用は今回が初めてだ。以上、文章で書くのは容易いが、分子シミュレーションの実現は白石君の奮闘に次ぐ奮闘の賜物であることを強調したい。そして、遂に我々は、ダイマー分子モデル系を以ってα緩和とβ緩和を同時に再現することに成功したのだ。
 シミュレーションデータの解析から、我々はまず、α緩和では並進自由度の運動が、そしてβ緩和では回転自由度の運動が支配因子になっていることを突き止めた。さらに、並進自由度が感じるエネルギースケールと、回転自由度が感じるエネルギースケールが乖離しており、これによって、α緩和とβ緩和に対応した二つのスケールから成るエネルギー地形が出現することを明らかにした(図)。この結果は、過冷却液体の運動は、二階層の階層的エネルギー地形を這うものであることを証明するものだ。四半世紀という時を超えて、階層的エネルギー地形描像の正当性を立証することに成功したのだ。

image647_01_2.png二階層の階層的エネルギー地形描像

 本研究の重要な貢献として、理論と実験のギャップを埋めたことが挙げられる。これまでβ緩和に関して、理論家と実験家の議論が噛み合うことは難しかった。しかしながら、本成果によって(β緩和に関しては)両者の距離はグッと縮まった。ガラス転移研究の歴史は古いが、理論家と実験家の間のギャップはまだまだ大きい。本研究を一つのロールモデルとして、さらに理論研究を実験研究側へと近づけていく努力を継続していきたい。

(相関基礎科学/物理)

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