HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報647号(2023年7月 3日)

教養学部報

第647号 外部公開

<本の棚> 星野 太 著 『食客論』

國分功一郎

排除にも負けず 包摂にも負けず 一でも多でもない
そういうものをわれわれは書くことができるか

 食客とはその人の住み処とは言えない場所に住まっている人間を、食べ物の観点から規定した言葉である。居候と言えばもう少し分かりやすいかもしれない。このような存在がもっぱら食べ物の観点から規定されていることは大変興味深いことである。食客を英語にすればパラサイトであり、本書によればその語源であるギリシア語のパラシートスは、「ただ主人の傍らで(para)、食事(sitos)をくすねるだけの人間」を意味するという(85頁)。こちらも食べ物の観点を中心に据えた語なのである。
 本書『食客論』は、「食」という極めて個人的な、しばしば他人と共有が困難な経験についてのエステティック(感性学=美学)と、「客」という常に宿主との関係においてのみ存在する人物についてのポリティクス(共同性の学=政治学)とを結びつけた本である、と、とりあえずは言うことができるかもしれない。だが、おそらく両者は本書によって結びつけられたのではなく、いつだって誰かと共に生きることを強いられており、誰かと共に生きないことはできないわれわれが、「〔ならば〕いかにして共に生きるか」(7頁)と問う時、実は最初に問題となるのは食べ物なのだということを告げ知らせる場面を、古今東西の著者とテキストの中に探し求めたのが本書なのである。
 したがって、「共生」という口当たりのよい言葉に対する違和感の表明から始まる本書を、食の観点から現代の共生概念に異議申し立てする本と名指すのは非常に不正確なことである。そのような評価においては観点が任意に選択できることが前提されている。著者は「食の観点から共生について批判的に考察してみると面白そうだ」などと考えて本書を書いたのではない。「ほとんど無内容な記号」(7頁)として流通しているこの言葉への違和感は必然的に「食」と「客」が切り離せない場面へと著者を導いたのであって、ロラン・バルトの講義録「いかにして共に生きるか」の読解から始まるその必然性の筋道を、読者は全十章において確認することとなる。なお、評者の考えでは、この筋道は第九章の石原吉郎論において一つのハイライトを迎える。
 まろやかで飲み込みやすい言葉で書かれたこの筋道を、読者は心地良く辿っていくことができる。しかし、本書のテーマが食客であり、食客は英語でパラサイトであり、パラサイトは寄生者(寄生生物)を意味するのだと思い出すたびに、読者はいま自分が消化しつつある論述のどこにパラサイトが位置しているのかがよく分からなくなるという経験をするだろう。第五章や第十章のようにパラサイトに明確な理論的位置付けを与えている章ですらも、よくよく考えて見れば、どこか後味の悪さのようなものが残るのである。それはもちろん著者の調理の仕方が悪いからではない。この存在がどこか理論的な言葉から逃れてしまう性質を持っているからである。
 共生について考えるならば、一と多、個人と社会という遠近法に収まり切らない他者、本書の言うパラサイトについて考えなければならない。ところが、パラサイトを明確に規定しようとすると、排除を乗り越えて包摂へといったお決まりの用語に絡め取られてしまう。パラサイトは結局はよそよそしい存在である。そのよそよそしさは、包摂されることで抑圧されてしまう。言い換えれば、包摂はよそよそしさを許さないという排除を伴う。パラサイトはその意味で、かつて盛んに政治学や哲学で論じられた「寛容」とも「歓待」とも全く異なる論述スタイルを要請する。
 その論述スタイルは、しかも、誰の目にも明らかな形で様々な排除が進行している現今の社会を見据えながら選択されねばならない。「パラサイト」や「寄生」といった言葉を使うだけで、底なしの危険に巻き込まれるかもしれないという可能性のすぐ脇でそれは選択されねばならないのだ。本書はそのような新しい論述スタイルへの果敢な挑戦である。読者には、したがって、まろやかで飲み込みやすい本書の言葉を、そうだからといって軽く咀嚼して飲み込むのではなく、そのコクを十分に味わうことが求められる。この場合、コクを味わうとは、本書の背後に広がる巨大な問題を思い描くことであり、著者と一緒にそれを考えてみることである。

(超域文化科学/哲学・科学史)

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     提供 講談社

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