HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報647号(2023年7月 3日)

教養学部報

第647号 外部公開

文学を研究する?

吉国浩哉

 昨年度末、ハーマン・メルヴィルの「書記バートルビー」について東大GSIセミナーで講演させてもらった。その関連から自分の「研究」についての記事を依頼されたのだが、おもわず「できればそうしたくないのですがI would prefer not to」と答えそうになった。大学教員「あるある」だが、何の研究をやっているのかと率直に訊かれると困るのである。しかし、バートルビーのように依頼を優雅にいなすこともできなかったので渋々この原稿を書くことにした。
 私はアメリカ文学の学位を持っているので、その「研究者」ということにはなる。博士論文はメルヴィルについて書いたので、それを「研究」の対象と言うこともできる。しかし、問題はこの対象への取り組み方である。研究をリサーチとも呼ぶことがあるが、たとえば「リスザルの生態をリサーチする」のと同じように、メルヴィルをリサーチするわけではない。大学入学以来さまざまな文学作品を読んで書いたり述べたりしてきているが、それを「研究」ですと断言することがなんとなく憚られる。
 というわけで、文学の「研究」を説明するのは難しい(しかも「文学」が何なのかもまったく自明ではないが、スペースの都合上とりあえず神話、民話や詩、小説などの総体として話を進める)。さらに言えば、文学「研究」のイメージが一般に共有されているとも考えにくい。そのあたりは学生と話すとよくわかる。文学作品を読む前期課程の授業にはかなりの熱気があるし、すでにかなりの読書家である学生も少なくない。しかし、後期課程への進学、つまり「研究」の選択となると、文学を検討する者はかなり少ない。それは文学が大学で「研究」するものではないと考えられているからだ。このような認識が生じた原因の一つはおそらく、戦後日本の中学高校で課される読書感想文であろう。文学作品について書くこととは書物を読んだ後に主観的な「思ったこと」を書き留めることであり、それが大学における、客観性を旨とする「研究」とは結びつかないのである。
 さすがに大学における文学への取り組みは読書感想文ではない。議論に根拠や論理があるという意味ではそれも学問である。とはいえ、これが文学の「研究」だ、さあ一緒に「研究」しよう!と学生に向かって明確に提示できないのもまた事実である。なぜか。「研究」といえば、なにか新しい知見を専門分野に付け加えること、何らかの新発見をめざすと考えられているし、自分も学生の論文指導では実際そのように言ったりもする。しかし、つまるところ、何か新しいことを言うことが文学作品への唯一のアプローチであるとも思えないのである。(そして実は、文学的テクストについて考えたり、書くことを名指す適当な概念ないしは名前がまだないのではないだろうか。人によってはそれを「批評」と呼ぶのかもしれないが、私のみるところ、カントの「批判書」という書名が示唆するように、それは哲学との距離が近すぎる。)
 「研究」に違和感をもってしまうのは、文学には歴史があるという事実のせいかもしれない。神話や叙事詩を考慮すれば、文学のそれは人類の歴史と同じぐらい長いとさえ言える。そして個々の作品には、作者が意識しようがしまいが良きにつけ悪しきにつけ、その歴史が染み込んでいる。メルヴィルが天才的な閃きで「バートルビー」を無から創造したのではなく、それはこの歴史あるいは伝統から湧き出てきたのである。このような観点からすれば、新しさよりも、歴史の深さ、伝統の大きさにどう取り組むのか、どうアプローチするのかが重要になる。T・S・エリオットは伝統を「手に入れる」には「歴史感覚」が必要であるとした。それは、「過ぎ去ったものとしての過去という認識のみならず、過去が存在しているという認識」に関わる感覚である。さすがにエリオットのように伝統を手に入れるのは少し厳しいかもしれないが、今を生きる自分が伝統の大きな流れに浸ることぐらいはできるかもしれない。あるいはカフカの「新しい弁護士」のように「もぐりこむ」こともできるかもしれない。このあたりの語り方が難しく権威主義的にも聞こえるだろうし、それを否定はしないが、伝統を批判しようにもそれについてまずよく知らなければ批判はできない。
 けれども具体的に何をするかというと、結局は本を読むだけである。ただそれには時間がかかる。最初から読んで「ピンとくる」ことはあまりないし、そもそも内容が理解できないこともある。しかし、時が経つとともに、他の本を読んだ後に分かるということもよくある。あえていえば、私の「研究」もこの後から「ピンときた」ことの説明ではある(GSIセミナーでは、カントの道徳哲学を読んだ後で見えてくる「バートルビー」という作品の有り様について語った)。伝統と親しむにつれて、以前読んだ本が面白くなったり、あるいは幻滅したり、同じものを別様に経験することになる。そのような経験は読めば読むほど起こりやすくなる。
 もちろん、このような伝統への取り組みは、別の視点からすれば「本の虫」ないしは「世捨て人」としての学者のイメージにもなるだろう。そして、それは『ミドルマーチ』のカソーボン氏のような徒労に終わることさえある。私自身『少年ジャンプ』の全盛期で育ち本格的に読書を始めたのは大学からだったので、もっと早くから始めていればと思うこともなくはない。とはいえ、自分が若い頃に読んだものを後で読み返したときに何にも分かっていなかったことに気付くのもよくある(というよりもその方が多い)。その意味では伝統へのアプローチに年齢は関係ないだろう。あるいは、先ほど触れたように、個々の作品に伝統が染み込んでいるとすれば、われわれが日々接する言語にもそのような伝統が染み込んでいるかもしれないし、われわれが紡ぐ言葉もかつて生きていた被造物が遺した繊維からできているのかもしれない。だとすれば伝統=文学に向かうことはいつでもどこでも可能だろう。たしかに大学の四年間だけでどこまで行けるのかは心許ないが、(広い意味で)本さえあれば文学との関わりは続く。その点では私も「研究」者というよりはまだ学生のままなのかもしれない。ああ、人間!

(言語情報科学/英語)

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