HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報647号(2023年7月 3日)

教養学部報

第647号 外部公開

<時に沿って> 900番教室の言霊

細川瑠璃

image647_04_4.jpg 学部時代から長きにわたって駒場キャンパスに通ってきたが、通りかかるたびに不思議な感慨を覚える場所がある。
 900番教室。この場所でかつて行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論は、近年映画化されたこともあって、わざわざ紹介するまでもなく知られていることであろう。私の世代にとっては学生運動もすでに歴史ではあるが、それでもこの場所が特別な感情を呼び起こすのは、三島が討論の最後に次のように言ったせいである。
 「言葉は言葉を呼んで、翼を持ってこの部屋の中を飛び回ったんです。この言霊が、どんなふうに残るかは知りませんけれども、その言葉を、言霊を、私はとにかくここに残して、ここを去っていく」
 その「言葉」とは、全共闘側が当初口にするのも躊躇っていた「天皇」という言葉を指す。ここで天皇制の話を始めると論点が肥大していくので避けたいが、ともかく900番教室に足を踏み入れるとき、私はここでかつて交わされた言葉の幾つかが、今もこの場所にこだましているような不思議な感覚に陥るのである。
 三島がいみじくも言霊と言い直したもの、つまり言葉にはある種の自律性とでもいうべきものがあって、ひとたび発せられれば自ずと飛び回り、別の言葉の呼び水となり、あるいは(三島が死んだ後にもその言葉がいまだにこだまするように)発した人間よりもずっと後まで生き続けるということ、─これとよく似た発想を、私の研究する二〇世紀初頭のロシアの思想家や芸術家たちも持っていた。彼らの関心は言葉の自律性と有効性にあって、それを言霊と呼ぶとやや民俗的な響きがあるけれども、思想が革命を呼び、詩や美術の言葉が現実世界を作るということ、いや、そうして記述されるもの、作られるものをこそ「現実」と呼ぶのだという転換、こういったことが盛んに論じられ、実践されたのだった。
 三島の言ったことは、もちろん900番教室に限ったことではない。駒場という場所のあちこちを(駒場でなくとも良いのだが)言葉が飛び回っていて、今日、授業中の議論で誰かが発した言葉も、これから長い時を生き続けるかもしれない。
 言霊という発想は素敵だ。ロシアの思想家たちが夢を持って語ったように、言葉は「現実」に働きかけ、それどころか「現実」を作ってしまうことがありうる。そんなふうにいうと御伽噺のようだが、辺りを見渡せばそんな例は沢山ある。言葉によって作られた陰謀論を信じ、その中で生きる人もいるし、言葉によって起こされた分断が武力による分断と地続きであることは、残念ながら現代を生きる我々がよく知っていることだ。そして言葉によって語られない人々や出来事が、いつしか「現実」から消されていってしまうことも。
 発した言葉の責任を持つことは難しい。何せ言葉には─ロシアの思想家たちの主張に従えば─自律性があり、すぐに我々を離れて飛んでいってしまう。しかしそれでも、言葉が世界を作るということの素敵さを知ったならば、その責任を引き受けることもまた、我々は学んでいかなければならない。そうすることでしか、この世界の信頼は守られないのだから。

(国際社会科学/社会・社会思想史)

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