教養学部報
第649号
ホガース展秘録
大石和欣
駒場博物館にて開催された特別展「近代ロンドンの繁栄と混沌 ― 東京大学経済学図書館蔵ウィリアム・ホガース版画(大河内コレクション)のすべて」(二〇二三年五月十三日〜六月二五日)は、大盛況のうちに幕を閉じた。六週間という短い期間だったが、入館者数は延べ二七八四人を数えた。一日平均七三人であり、通常の一・八倍とのことだ。来館者に学内外の学生や研究者に加えて、一般の方々も多数いたのは、企画として成功だったと言えよう。
好評だった理由は特定できない。正直、企画側としても驚いている。今回は経済学図書館の広報活動が貢献した可能性がある。また、ホガースへの社会的関心が想定以上に高く、口コミ・SNSで評判が広まったことも要因として考えられる。
ことの始まりは、昨年初めに経済学図書館長の石原俊時先生から、同図書館が所蔵しているホガースのコレクションをどこかで展示できないかと問い合わせがあったことに発する。詳細を伺うと、連作を中心に七一点の版画が収蔵されており、二〇二二〜二三年に開催中の同図書館創設一二〇年等を記念する事業「知の継承」の一環として公開する可能性を模索しているとのことだった。青天の霹靂というのは大げさだが、そんなコレクションが学内にあることに仰天した。
ウィリアム・ホガース(一六九七〜一七六四年)はイギリス絵画の祖と見なされることもある画家・版画家であり、《描かれた道徳》と呼ばれる寓意的な連作風俗画がよく知られている。一八世紀前半のイギリス社会の世相や風俗を反映しながら、背後にある道徳・倫理や価値観の問題をえぐり出し、善悪も愚かさも滑稽さも織りまぜて人間的なものとして提示するイギリス的諷刺を特徴とする。インパクトのある構図は社会的・政治的影響力を及ぼした。歴史学や文学の視覚資料としても価値が高い。
コレクションは本学の総長も務めた大河内一男と、その息子であり同じく経済学部教授となった暁男が蒐集し、同図書館に寄贈したものである。そのほぼすべてがホガース存命中に印刷された版画であり、質が高い。大河内一男が社会政策や労働問題の研究を進めるうちにホガースの魅力に取り憑かれ、蒐集を始めたと考えられる。
駒場博物館館長の三浦篤先生に相談すると、やはりコレクションの存在に驚かれ、ぜひやりましょうということになった。最終的に、土日を含めて一般公開する特別展として開催し、さらに七一点すべてを展示することになった。
決定には博物館の折茂克哉先生の配慮も大きい。展覧会はホガースの版画が会場を埋め尽くす壮観を呈した。一点ごと間隔を設ける通常の展覧会ではありえない展示方法である。全点を額装した経済学図書館としても、展示した博物館としても大変な作業だった。この規模のホガース版画展は海外でも類例がない。
おかげで画上に人物やモノをダイナミックに配置するホガース独特の構図が際立つことになった。また、ホガースが連作の構図を一続きのものとして総体的に捉えて描いているのもわかった。版画職人からアーティストである画家になった野心的な人物と見なされがちなホガースだが、今回、絵画では表現できない光と影の微妙な調整、人物の表情や所作の精緻な陰影表現に版画師として徹底的にこだわり続けていることが観察できたのも発見であった。
そんなホガース版画をわかりやすく提示するのが企画側の責任である。区分や説明が重要となる。だが、能天気なことに展覧会の手順確認までそれが自分の責務だと私は気づいていなかった。私はホガースや美術史の専門家ではないし、展覧会を差配した経験もなかったからだが、その時点で会期まで残り三ヶ月を切る緊急事態となっていた。
大急ぎで資料を参照した上で、ホガース作品の全貌を俯瞰的に理解できるように、「諷刺の美学」「近代ロンドンの繁栄と混沌」「寓意画で見るロンドン風俗① ― 勤勉と富、暴力と犯罪」「寓意画で見るロンドン風俗② ― 階級、女性、性愛」「政治と外交 ― 財政軍事国家の陰影」という五つのカテゴリーに作品を分類することを提案した。各版画に内容と合致した日本語題名と説明を付し、連作全体にも簡潔な説明も付した。さらにカテゴリーごとに瓦版解説も配布し、文献一覧表とともに入手可能な関連書籍を展示することになった。
しかし、ホガースの寓意画には不明な点も多い。そこで、来館者の自由な解釈・議論を促すべく、疑問やコメントを付箋に記して、壁に貼りつける案が浮上した。SNSでやっていることを紙ベースのマニュアル式に変換しただけである。普通の美術館では許されないが、駒場博物館は寛容にも付箋と鉛筆を配備し、来館者の間接的対話を推進してくれた。付箋はしだいに増え、会期末には作品の周りを付箋が埋め尽くす状態になっていた。結果的にコメントがコメントを増殖する参加型展覧会になったと思う。
教育効果の点で、授業や講演会、ワークショップも重要だった。私が担当した初年次ゼミでは、博物館でホガース版画の実物を前にして、考察やグループ討論、プレゼンを行い、個別作品と連作それぞれで解説文を作成・展示した上で、学期末には各人で論文執筆もしてもらった。成果物が期待以上に立派なものになったのはうれしかった。
ハイブリッド形式で開催された講演会では、ホガース版画について、三浦先生が西洋風俗画の系譜の中で定義を行い、私が都市史の文脈の中で意義を探り、聴衆との質疑応答を経て、ホガース版画の解釈の広がりを確認することができた。
また、目黒区教育委員会と連携したワークショップは、参加者とともに市民目線でホガース作品を考え直す機会となった。それこそまさにホガースが目指していた美学と言えよう。
芸術作品を一人で鑑賞するのもいいが、異なる見方をする人たちと直接、あるいは間接的に「対話」することで、作品はより深遠な意味を開示してくれる。そんな解釈学的循環の場を展覧会は提供できたのではないだろうか。
(言語情報科学/英語)
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