HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報650号(2023年12月 1日)

教養学部報

第650号 外部公開

学部報の行方1・教養学部報はサステイナブルか?

四本裕子

 所属部会のメールボックスに定期的に教養学部報が届けられるが、いつも、読まずにリサイクルボックスに入れる。例外は、一面にお世話になった教員の退職の挨拶が掲載されている時だけなので、手にとって読むのは二〜三年に一回ということになる。今回、別のテーマで執筆依頼を受けたが、教養学部報はほとんど読まないし負担が大きいし紙の出版物は環境にもよくない。という理由でお断りしたところ、その理由を書かないかと提案いただき、普段は読まない教養学部報にこの文章を書いている。

 教養学部報は一九五一年(昭和二十六年)に発刊されたようである。新聞が情報伝達の媒体として重要だった時代である。電子メールもなかったこの時代に、大学教員がお互いにどのように連絡を取り合っていたのかも謎であるが、教養学部のコミュニティの形成に教養学部報は重要な意味を持っていたのだろう。私は法人化以前の大学を知らないが、聞くところによると、諸々の業務負担は今ほど多くはなかったらしい。勝手な想像だが、その時代の大学教員は、午後にコーヒーを飲みながら教養学部報を読み、自分も書いてみようかと思うような、優雅な研究生活を送れていたのかもしれない。

 そして今、時代は令和である。学内外の業務に使わざるを得ない時間は増え続けており、隙間時間で研究を行っている。学内の教職員との連絡は電子メールやスラックを利用しており、学内の動向に関する情報は、SNSやプレスリリースで手に入れることもあるなど、教養学部報が発刊されたころとは情報の量も入手方法も変わっている。私が学生だったときは医学部図書館に出向いてコピー依頼をしないと入手できなかった学術論文も、今は1クリックでダウンロードできる。講義資料もITC─LMSにアップロードできる。私自身は、研究・教育のための教科書も趣味で読む書籍もほぼ全て電子化したものを利用しているため、紙もペンもカバンには入っていない。
ここで問いたい。この時代に、教職員が執筆・編集して教養学部報を発行する意義は何なのだろうか? この新聞が情報共有の手段としてどれほどの効果を持っているのだろうか? 私は読まないから廃止すべきと主張したいわけでは決してない。駒場の歴史の記録としての機能もあるだろう。ただ、時代が変ったことを認識し、ここで一度、その意義について議論できないだろうか。

 そもそもの存在意義に加え、紙とインクと輸送に関わるエネルギーを使って、紙媒体で発行することの是非についても考える必要もあるだろう。学内では他にも膨大な印刷物が飛び交っており、教養学部報が減ったところでカーボン排出量はさほど変わらないという考えもあるかもしれない。しかし、気候変動が人類一丸となって向き合わなければいけない問題となっている今、大学という場で無自覚にいるわけにはいかない。私が読まずにリサイクルボックスに入れる印刷物は教養学部報だけではない。諸々の学内広報、国内学会誌、出版社から送付される出版物のリストなどが続々と配達されてくる。紙の印刷物だけならまだいいが、ビニルに包まれている場合はそれを剥がして別々に捨てなければいけないので、毎回、小さくイラッとしている。自分が所属する学会に対しては、たびたび、完全電子化や希望者には印刷物を送らないというオプトアウト制度を提案してきた。オプトアウト制度を導入しても出版の経費が削減できるわけではないという問題はあるが、一部の学会では印刷物削減の方向で議論が進んでいる。紙媒体の印刷物が未来永劫使われ続ける可能性は低く、遠くない未来に移行可能なものは全て電子媒体に移行することになると私は予測している。完全オンライン化は、するかしないかではなく、いつするかの議論だと考えている。

 そもそも、教養学部報を読みたい人と読まない人の比率はどれほどだろうか? 紙に印刷されたものを読みたい人の比率はどれくらいなのだろうか? 毎回、どれほどの教養学部報が読まれずに廃棄されているのだろうか? 仮に二十ある記事のうち二つだけを読んで廃棄する読者がいる場合、それは紙に印刷して配布する正当な理由となり得るのだろうか? このような数字や議論に興味はあるが、回答者は教養学部報に関心のある構成員に偏る可能性が高く、妥当性の高いデータを得るのは難しいかもしれない。何らかの形で構成員の意見を集約すると方向性が見えてくるかもしれないが、教職員のアンケート疲れの理由を増やすだけで終わってしまうかもしれないという懸念はある。

 無いよりはあったほうがいい物はたくさんある。無くても困らないものを頑張って維持するのも大学の担うべき役割だと思う。しかしながら、無くても困らないものに割く時間は今の私には贅沢だ。そうした贅沢な業務(例えば、依頼された原稿の執筆)を、これまでは負担に感じながらもこなしてきた。そして、何とかしてしまうので、まだできると思われてしまい、研究に使える時間がじわじわと減ってしまう。うまくバランスが取れていないのは私の能力不足であることは自覚しつつ、この原稿を執筆したのでしばらくは新しい執筆依頼がこないことを願って、ここで終わりにしたい。

(生命環境科学/心理・教育学)

第650号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報