HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報650号(2023年12月 1日)

教養学部報

第650号 外部公開

<本の棚> 黛秋津 編『講義 ウクライナの歴史』

森井裕一

image650-02_3.jpg ロシアによるウクライナ侵略と今日まで続く戦争によって、誰しもが多かれ少なかれウクライナに興味を持つようになった。遠い国だったウクライナに関する報道は爆発的に増えたが、メディアを通した断片的な情報からウクライナを理解することは難しい。ロシアによる侵略戦争の背景、ウクライナとロシアの関係を考えようとすると、実は知らないことばかりということに気がつく。しかし現在の問題にまで接続できるウクライナの全体的な歴史を扱った読みやすい日本語の文献はなかった。そのニーズに応える本書は、一線の歴史研究者による一般向けの全十一回の講義をまとめたものである。進行中の戦争を強く意識しながら、ウクライナの歴史を包括的に扱っている。複雑な歴史を体系的に振り返り、理解することで、今日の問題にも多くの示唆を与えてくれる。 ウクライナの歴史の全体像を俯瞰する概論を提示している編者による第一講(章)は、歴史的な観点からウクライナがどのように形成されてきたかを簡潔に提示している。ウクライナの地理的範囲は変化を続け、そこに住む人々の歴史も一筋縄では捉えられず、ロシアとの関係においても地理的範囲や歴史をどう捉えるかによって見え方が異なることが示される。続く第二講以降は九世紀から始めて現在進行形の戦争に至るまでを、キエフ・ルーシ、リトアニア・ポーランドによる支配、ロシア、ハプルスブルク帝国による支配、ナショナリズムの時代、ソ連時代、ソ連解体後の国家建設と挫折、ロシア・ウクライナ戦争の時代区分で扱っている。さらに通史を補完する形で、ユダヤ人の歴史、歴史認識問題、正教会の分裂の歴史という政治史からはみ出るものの、ウクライナの歴史を複雑にしているがゆえにウクライナ史の理解に欠かせない問題も丁寧に扱っている。各章末には「私の視点」というコラムがつけられている。この地域にかかわってきた専門家が、自分の専門や方法論に引きつけながらウクライナと戦争に関連する問題をどう考えているかを率直な感想を含めて議論しており、本書を生き生きとしたものにしている。豊富な地図や図表もウクライナの歴史的変遷をわかりやすく提示している。ともすれば冗漫になりがちなですます調で書かれているが、臨場感あふれる講義を再現しているようでもあり、深いニュアンスのある専門家の議論を平易にまとめた編集の巧みさを感じさせる。 島国日本のように地理的境界が比較的明確で長期にわたって統治の範囲が容易に限定できた国と異なり、ウクライナの消長の歴史は周辺の勢力との関係の中で規定されるものであった。そこに暮らす人々の入れ替わりもあり、住民の関係性も、アイデンティティーのあり方も変化してきた。何をウクライナ的なものとするか、誰がそれを議論するかによってもウクライナ問題のあり方は変わってきた。いくつもの章で議論されているように、そもそもウクライナの歴史の解釈が時代によって、主体によって異なり、それ自体が政治化する。そこを丁寧に解きほぐして理解することは現在進行形の問題の理解にも重要である。

 しかし厄介なのは、終章でも論じられているように、現在進行形のロシアとの戦争の問題では、とるべき政策の論理と歴史学的な解釈の論理は異なることである。現代の国際社会の中で制度化されてきた国際法の規範と、長い歴史の解釈から生まれる政治の論理も衝突する。さらに、現在進行形の問題では史料から事実を再構築することは容易ではない。それでも、本書を読んで長い歴史を丹念に見ていくと、どこに問題の起源があるかは理解できる。当事者たちの行動の背景にある歴史解釈や、為政者が歴史をどう利用しようとしてきたかもわかりやすく提示されている。著者たちは歴史から学ぶことの重要性を強調しつつも、同時に安易な歴史のアナロジー(類推)の利用を諫めている。この真摯な歴史書は、ウクライナに興味を持つ読者にとって有益なのは言うまでも無い。しかし同時に、ある地域の歴史とどう向き合うべきか、日々の政治や政策が歴史にどう規定されているかを考える上で、歴史に興味を持つ全ての読者にウクライナを題材として深く考える機会を与えてくれる。

(地域文化研究/ドイツ語)

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