HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報650号(2023年12月 1日)

教養学部報

第650号 外部公開

<駒場をあとに> 物事には終わりがある

酒井哲哉

 私が駒場に赴任したのは一九九四年十月だから、今年度末で二十九年半の勤務。前期課程の学生として過ごした二年を加えると、優に三十年以上駒場にいたことになる。文字通り成長してからの人生の大半を駒場で過ごしたと言ってもよいだろう。

 私の子供時代は昭和中期だから、万事が今とは違っていた。あの頃の父親の大半は子供に関心はなかったから、時々雷が落ちる以外は、基本的に放任だった。親バレしなければ大抵のことは許される緩い時代で、父権制社会の隙間に居場所を見つける性が身についていた。大学に入学しても、特に懇切な教育指導があるわけでもなく、また学生のほうにも大学は自分で勉強するところという不文律がまだ生きていた時代だったので、授業もほとんど出席せず、登校時の大半は図書館で過ごしていた。これという楽しい思い出が駒場での学生時代にあったわけではないけれども、隙間の自由の心地よさは感じていたと思う。

 何かのご縁で駒場に奉職することになったとき、まず頭に浮かんだのは大学入学時のことだった。上京して初めて足を踏み入れた、あの時計台のあるキャンパスの門を再びくぐれるようになったのは、初心にかえったようで嬉しかった。新入生の頃は、他にすることもなかったので、一日の大半を読書で過ごしていた。今のようなシラバスに沿ったお行儀のよい勉学ではなく、自己流の乱読に過ぎなかったが、よくも悪しくもそれが現在の自分を作っていることは否定しがたい。大学院に進学してからは、所属講座で求められているテーマや文献に自分を合わせるように一先ずはしてみたが、どこかしら、自分が求めているものとは違う場所にいるようなすわり心地の悪さが残った。

 そこで、教師として駒場に戻ってきたのを機に、前期課程の学生時代の読書経験に沿った形に研究の方向を変えようと決意した。政治学、歴史学、思想史などが緩く束ねられていたあの頃の知的感覚をもとに、近代日本の経験を反芻する試みをしてみようと思ったのである。本郷の厳格な講座制にいた時の自分よりも、隙間の自由を謳歌していた駒場時代の自分の方が、より本当の自分に近いと感じていたから、このような選択になったのだと思う。こうして大学入学時に読んだ書物を再読し、それらをもとに、いくつかの論文を執筆した。この過程で、志をともにする様々な分野の研究者と知り合うことになり、いくつかの共同研究も行った。駒場は昔から留学生の多いキャンパスだったが、その度合いが大学院重点化以降格段に増し、一時期は大学院の授業に十二か国の学生さんが出席するようなときもあり、若干戸惑いもあったが、いわく言い難い熱気に押されて、日々の業務が進んでいった。今から考えるといろいろと勇み足もあったような気もするが、あれが勢いというものかもしれない。ともかく、少しは自分の言葉で論文が書けるようになって、駒場に来て本当に良かったと思っている。

 改めて言うまでもないが、駒場は、全国で最も優秀な学生の集まるところである。三十年近く勤めて、毎年圧倒的に意欲の高い新入生に接するたびに、その都度感服してきた。世の中には、ゆとり教育の弊害とか、大学生の学力低下とかを、あれこれ指摘する人もいるけれど、こと駒場の学生についてはそのような心配は全くないと思う。むしろ、前期課程の教師として心掛けていたのは、過度に教育的にならないことだった。冷たく突き放す必要はないが、かといって、知的好奇心に富む学生に、自分の関心を押し付けるのもいいことではないだろう。そもそも自分はあの緩い時代を生きてきたから、いまさら厳格な管理者になるのはいささか無理がある。というわけで、教師になっても、あたかも駒場の学生生活が永遠に続いているかのような感覚で、つい最近まではいたのだった。

 しかしながら、物事には終わりがある。コロナ禍に突入し、オンライン授業の日々で大学にほとんど足を運ばなくなってから、久しぶりに駒場に来ようとしたら、改装中の渋谷駅で迷子になり、井の頭線のホームにたどり着くまで、一時間近くかかった。学生時代から慣れ親しんできたはずの渋谷駅から、とうとう引導を渡されたのである。自分はまだ若いと思っていても、実のところはちっともそうではないのだった。この辺が潮時ということなのだ。

 そういうわけで、とくにこれという未練はないが、私が大好きだった駒場キャンパスの住人たちが、世間からの逆風にさらされることなく、いい意味で緩い知的生活を今後も続けられることを、これからは学外から祈りたいと思う。みなさん、長い間どうもありがとうございました。

(国際社会科学/国際関係)

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